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連載・特集

緑地帯 片山杜秀 音楽とヒロシマと私②

 伯父は海軍軍人だった。海軍兵学校の73期生で、戦艦長門にも乗っていた。戦後は仙台で民間放送局に勤めた。面貌に漂う苦さや渋みが、敗戦を経験した旧軍人の風情をいつも醸していた。

 徴兵されて戦争に行かされたのではない。職業軍人である。生涯、そのことを誇りにしていたに違いない。でも、威勢よく思い出を語りはしなかった。そもそもめったにその種の話題に触れない。

 幼い頃、私はしょっちゅう、東京の家から仙台の母の実家に預けられていた。1969年7月、アポロ11号の月面着陸のテレビ生中継を、私は東京で両親とではなく、仙台で伯父や従兄と見ていた。そのくらいよく仙台に居た。

 そういうとき、伯父は何度か、航空自衛隊の松島基地に、私を連れて行った。わざわざ幼いおいに見学させるのだから、何か伝えたかったのだろう。でも旧軍や自衛隊のことを説明してくれるわけではない。空を飛ぶ自衛隊機を、黙って見上げているばかりである。その顔はやはり渋みに覆われていた。

 それでも私が中学生くらいになると、ぽつぽつと話してくれることもあった。兵学校の校長だった井上成美提督はやはり尊敬できる人物であったとか。すぐ黙って後は続かないのだけれど。

 それから乗艦の護衛空母、神鷹(しんよう)が撃沈されたときの話。「周りで浮いている水兵が、お母さんと最後に言っては、沈んでゆく」。遠くを見つめてそれだけ言って黙る。

 伯父はしばしば呉を訪れていた。一度くらい随行させてもらえばよかったと、とても後悔している。(政治学者、三原・ポポロ館長=茨城県)

(2022年1月7日朝刊掲載)

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