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社説・コラム

『想』 植木研介(うえき・けんすけ) サッカーと輜重隊遺構

 サッカースタジアム建設予定地で旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊」施設の被爆遺構発掘との報道がされ、心が動いた。馬を繋(つな)ぐ石柱もある。連想が正しいか確かめようとしたら父と子のファミリーヒストリーとなった。

 父松太郎は蹴球の盛んな広島一中(現国泰寺高)から、世界恐慌の年、広島高等師範学校(4年制)の英語科に入学、蹴球部員になった。馬術部にも入り、頼まれると水泳部員になりすまし対外試合に臨んだという。2年の時全国高専大会で優勝したが、よく語っていたのは、翌年5月来広したドイツの巡洋艦エムデンの乗組員とサッカーの親善試合を行い1―2で敗れた話。オフサイドの解釈が原因だったが親善目的なのでドイツ人の審判に従ったという。

 不況と就職難の昭和8(1933)年に卒業。6月にやっと群馬県の桐生中学校で職を得た。4年後、広島文理大に入学したが翌年9月の召集で第五師団第二兵站(へいたん)輜重兵中隊に編入。宇品から大連港に向かい満州馬400頭を受領、10月のバイアス湾の上陸作戦に従軍した。主に広東に駐留。海南島に対する作戦にも参加し、約1年半後召集解除となり大学に復帰した。

 ところが次の年12月8日真珠湾攻撃が行われ、暮れの27日には繰り上げ卒業。翌年4月に新設される市立中学校(現基町高)の教員となった。終戦の年の6月に再び召集され、宮崎県高鍋の海岸線で塹壕(ざんごう)掘りに従事しているとき、広島が原爆で壊滅。私の叔父永野純夫を含む1年生が小網町で建物疎開作業中に被爆し、市立中全体で369人の死亡者を出すことになった。0歳児の私も皆実町で左眼の視力を失っている。

 私が高1の秋、ソ連から来日したロコモティフが全広島とサッカー交歓試合を旧市民球場で行った。試合は負けたが外野の緑の芝生と白線は鮮烈だった。

 「見えねば、忘れる」という格言が英語にある。世界で愛されるサッカーの競技場と被爆遺構が共存することを切に願って、広島市長の英断を待ちたい。(広島大名誉教授)

(2022年1月6日中国新聞セレクト掲載)

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