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遺品 無言の証人

[無言の証人] 形見の手紙

家族愛深く

 原爆資料館(広島市中区)が収蔵する2万点以上の実物資料には、多数の手紙が含まれる。広島市街から郊外へ学童疎開した子どもが家族に宛てた便り。原爆の犠牲になった父親や母親が、生前に疎開先のわが子への思いをしたためた封書。被爆77年となる今年、古びた紙、かすれた文字を手掛かりに、たった一発の原爆によって断ち切られた家族の絆をたぐり寄せ、見つめたい。(桑島美帆、湯浅梨奈)

娘ヨリ

読み返す母の涙にじむ

 被爆死した娘を思う母親の落涙の跡だという。便箋の文字が、にじんでいる。13歳だった梶山初枝さんから、満州(現中国東北部)で暮らす家族に届いた手紙だ。母の瀧子さんが、11年前に98歳で亡くなるまで形見として大切にしていた。

 初枝さんは、広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)の2年生だった。「毎日一生懸命勉強して居ります。もう試験が近づきましたから今度こそしっかりやりみんなに顔向け出きる様になりたいと思ひ夜九時頃勉強していると敵機が来てさせません」―。戦時下でもひたむきに勉学に励む少女の姿が浮かぶ。

 梶山家は、3世代10人で広島市愛宕町(現東区)に暮らしていた。1945年春、「満州は食糧に困らない」と人づてに聞き移住を決意。初枝さんは「勉強を続けたい」と懇願し、祖母ハルさん=当時(61)=と広島に残った。

 8月6日、初枝さんは爆心地から約1キロの雑魚場町(現中区)へ建物疎開作業に出かけたまま戻らなかった。ハルさんは、富士見町(同)で被爆死したとみられる。

 「姉は木箱を机代わりに一生懸命、勉強していました」と妹の大門美智子さん(87)=佐伯区。満州へたつ前夜、初枝さんの隣で寝ていると足が当たり、けんかしたことを今でも悔やんでいるという。

 瀧子さんたちは終戦の10カ月後、広島に帰った。そこで娘の死を知った。孫の斉藤玲子さん(53)=同=は「生前、涙を流しながら手紙を読み返しては『苦しまず即死であってほしい』と自らに言い聞かせていた」と振り返る。

 昨年10月、平和記念公園内の原爆供養塔に長年安置されていた遺骨がハルさんだと判明し、広島市から梶山家に返還された。その際遺族は、ハルさんの遺品とともに初枝さんの手紙を原爆資料館に寄贈した。

 初枝さんの遺骨は見つかっていない。「(衣服や紙を)美智子や弘子、武人、修三、静江に送ってやりたい」。瀧子さんが、混乱極まる満州からの引き揚げ時も手放さずに持ち帰った手紙。きょうだい思いだった初枝さんが確かに生きた証しである。

両親・姉ヨリ

戦後生き抜く 心の支えに

 12歳で原爆孤児となった京極清隆さん(2004年に70歳で死去)は、学童疎開先に届いた家族からの手紙を生涯手放さなかった。人知れず読み返していたことだろう。文面に込められた両親の愛情を支えに、懸命に戦後を生きた。

 「清隆ちゃんが先生の御教をよく守ってえらくなってくれますのを喜んで居ります」「顔を洗ふセンメンキハいつもよく洗ってをきなさい」―。1945年4月、父清三さん=当時(45)=が、川地村(現三次市)の円勝寺に疎開していた京極さんに宛てた。

 京極さんは、広島市西引御堂町(現中区十日市町)で酒店を営んでいた清三さんと母アヤメさん=当時(38)=の長男として生まれた。成績は「優」ばかり。「一中(県立広島第一中学校)に通らなけりやだめよ」。姉喜美枝さん=当時(17)=からの便りにも、弟への期待感がにじむ。

 あの日の朝、爆心地から約800メートルの自宅にいた両親と5歳だった妹の征子さんは、避難先で次々と息絶えた。一緒だったとみられる喜美枝さんは、どうしても見つからなかった。

 親を失って進学を諦めた京極さんは、市内の喫茶店で働きながら幼い弟と妹たちを育て上げた。妻の美代子さん(86)は「思い出すのがつらかったのでしょう。原爆の話はしませんでした」と涙ぐむ。2人の娘が結婚するまで、子どもへの差別を恐れて被爆者健康手帳も取得しなかった。

 次女美樹さん(55)にとって、忘れられない光景がある。肺がんで入院した晩年の父が、意識が遠のく中で「お母さん、お母さん」とうわ言を繰り返したのだ。「母親をどれだけ恋しく思っていたことか。初めて知りました」。京極さんの他界から3年後、15点の手紙を原爆資料館に託した。

息子ヨリ

病床の母いたわる言葉

 習いたてのアルファベットとともに「勉強がたいへんゆかいです。物象・数学・教練・体操・英語・等がすきです」と記す。県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年の立石静徳さん=当時(13)=が、下宿先から西城町(現庄原市)の父充治(みつじ)さん=同(42)=に送った手紙だ。

 「お母ちゃん よく養生して早く病気を治してね」「元気で起きておられますか 心配しております」。病床にいた母春美さん=当時(36)=や家族をいたわる言葉も添えている。

 建物疎開作業に出ていた静徳さんは、爆心地から約600メートルの中島新町(現中区)で熱線を浴びた。「広島原爆戦災誌」によると、1年生187人と教員3人が即死した。充治さんは2日後に広島市内に入って捜したが、行方不明のままだ。

 原爆資料館が2000年に充治さんの長女、頼子さんから聞き取った記録に、「『あの子は親孝行な子じゃったのに』とつぶやいたのが忘れられない」とある。春美さんも1945年8月末ごろわが子の元へと旅立った。

姉ヨリ

重い傷に耐え弟を激励

 所々乱れた文字で「ねてかいて、字きたなくてごめんね」と添えられたはがき。戦後間もない時期から平和運動に力を注いだ牧師、四竃(しかま)一郎さん(1986年に83歳で死去)の長女佑子さん=当時(15)=が原爆投下の翌日、疎開先にいた弟たちを安心させようと、力を振り絞って書き上げた。

 広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)の4年生だった。学徒動員された上流川町(現中区)の広島鉄道局で被爆。頭が陥没するほどのけがを負った。友人宅に収容されたが、両親や、建物疎開作業に出かけた一番上の弟の揚さん=当時(13)=の安否が分からない。出血で意識がもうろうとする中、和田村(現三次市)に疎開していた国民学校5年と4年の弟に宛てて筆を執った。

 「姉ちゃんは元気でゐます。でも、頭を、少々、ひどくやられて」「必ずみんな無事でせうから、しっかりね!」。5日後、家族との再会を果たし、和田村で懸命の看護を受ける。しかし9月4日、一郎さんの腕の中で息を引き取った。

 自らも被爆した一郎さんは、1971年まで日本キリスト教団広島教会(中区)の牧師を務めながら体験を語り続けた。2016年に他界した揚さんは、姉の手紙と家族の手記を「平和を実現する力」として09年に出版している。

両親ヨリ

「どんなことがあっても がんばれ、がんばれ…」

 「お母ちゃんもそのうちまいります」「モンペも、綿入れにして冬になるまでには送ってあげます」―。便箋にびっしりと書かれた文面から、幼いわが娘への気持ちがあふれ出ている。

 内藤チヨさん=当時(42)=が、1945年4月に原村(現広島県北広島町)の浄土寺へ学童疎開した光道国民学校の3年生、衹子(ふさこ)さんに宛てた一通だ。寂しさを募らせる娘に「体に気をつけてしっかり勉強してえらい人になって」と語りかける。「れい子も大きくなりました。名保子もまいにちいたずらをしてあそんでいます」。3歳と生後3カ月だった妹の近況を伝える。

 父清三郎さん=当時(47)=は、各地が空襲を受ける中「どんなことがあっても、おどろいたり、泣いたり、びっくりしてはいけません」と説く。「がんばれ、がんばれ、がんばれ…」

 8月6日、内藤さん一家は4人で外出していたらしく、遺骨も見つかっていない。衹子さんは、終戦後に復員した兄に育てられたという。親子の再会も、「綿入れのモンペ」の差し入れも、かなわなかった。

(2022年1月10日朝刊掲載)

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