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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 李承晩ライン宣言70年 拿捕・抑留 悲痛な声を後世へ 写真家 川上讓治さん

 1952年の「李承晩(イ・スンマン)ライン宣言」から70年を迎える。韓国初代大統領の李承晩が一方的に公海上の主権を主張。日本の漁船を多数拿捕(だほ)、抑留したため、中国地方では主に島根県の漁船員と家族が苦汁をなめた。一連の事件を浜田市の写真家川上讓治さん(71)は13年にわたって追い、近く収集資料を公開する。「日韓条約交渉が長引く中、国家のはざまで船乗りたちが翻弄(ほんろう)された」と川上さん。地元でも忘れられた史実を世に問う意味を聞いた。(特別論説委員・佐田尾信作、写真・田中慎二)

  ―生まれも育ちも港町浜田。どのようにして李ラインの問題にたどり着いたのですか。
 実は石見の人と風景をテーマに写真を撮るうちに、輸送などの軍役に就かされた戦時徴用漁船の悲劇を知ります。1943年には浜田から底引き網漁船が15隻近く南太平洋の戦場に送られ、一隻も帰っていません。私は県内の漁村で遺族たちの証言を得て映像に残し、2009年には資料展を開きました。その折に、戦後の韓国抑留を裏付ける画像も入手したのです。

  ―その画像に一体何が。
 1954年以降、操業中に拿捕、抑留され、58年に2回にわたって浜田に帰還した漁船員たちの姿でした。一人一人の表情が分かります。歓迎大会も盛大に催されたようです。画像の原板はなく、誰が何の目的で撮ったか、所有者は誰か、なかなか突き止められませんでした。昨年ようやく、当時の船主の関係先にたどり着いたのです。

  ―原板捜しが証言を集める道のりでもあったのですね。
 無事帰還した県内の93人の消息を確かめて歩きました。浜田のほかに島根半島です。古い話なので半ば諦めていたところ、8人が健在でした。戦後創刊された浜田のローカル紙・石見タイムズの記事も役立ちました。留守家族を丁寧にルポし、日韓関係の好転と早期解放を政府に求める抑留漁船員からの悲痛な手紙も載せていたんです。

  ―元漁船員の消息を追う中で生の証言も得たのですか。
 はい。当時は少年で8カ月余り釜山に抑留された松江市の小川岩夫さんは、韓国船に突如発砲され抵抗できぬまま拿捕されたそうです。刑務所や収容所は不衛生で食事もひどかった。小川さんは「私ら漁師の願いは一つです。安心して漁ができるようにしてくれ―ということだけですよ」と訴えています。

  ―李承晩には親米、外交通という印象があります。なぜ強硬策を選んだのでしょうか。
 占領下の日本には「マッカーサー・ライン」という漁獲水域がありました。これが52年の対日講和条約発効で消滅すると、日本漁船が押し寄せてくることを韓国は恐れたのではないでしょうか。当時の韓国には船も施設もない。それが同じ年の李ライン宣言の動機だと推測します。私は専門家ではありませんので、あくまで私見ですが。

  ―両国は65年に日韓基本条約と漁業協定を結びました。李ラインはやっと消滅します。
 日本は韓国への賠償問題を抱えて難しい選択を迫られた時代です。拿捕、抑留に迅速な対応ができないまま、条約交渉は長期化した。韓国は漁船員を人質として外交に利用したといえます。一方で留守家族は働き手を奪われ、船主は船を失った。国家のはざまで常に翻弄されるのは、こうした人たちです。これを後世に伝えたいのです。

  ―今も韓国が主権を主張する島根県隠岐の竹島(韓国名・独島(トクト))を李ラインは取り込んでいたようです。
 竹島海域は水深が深く、二そうびきの底引き網に向きませんし拿捕も確認されていません。それより南西の長崎県対馬から韓国の済州島に至る海域が好漁場で、浜田からも盛んに出漁していました。それだけに拿捕の危険は高かった。李ライン問題は領土問題ではなく、漁業の問題だと私は解釈しています。

 今も同じですが、むちゃな取り方をすれば資源が枯渇し、共倒れになります。海を共有する者同士が理解し合い、共存の道を探るほかないと思います。

かわかみ・じょうじ
 浜田市生まれ。大阪芸術大写真学科中退。75年上京。新宿・モダンアートの照明係からストリップの世界に入り、79年独立。前衛舞踏などを融合させた演出を手掛けて07年廃業。同年帰郷し「石州ブルース」と題したモノクロ写真のシリーズを制作する。著書に「すとりっぷ小屋に愛をこめて」など。数多くの写真展も手掛けてきた。

■取材を終えて

 川上さんは漁の現場を知ろうと浜田港でトロ箱を運んだことがある。だが、そこで尋ねても李ライン問題を知る人はほとんどいない。と同時に、まるで魚が取れないことに驚いたという。川上さんの営みは往時の浜田の繁栄を知る者の自分探しでもある。それが「語り継ぐ」ということと同義かもしれない。

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浜田で16日パネル展

 川上さんは「李ラインによる拿捕、抑留から70年」と題した資料パネル展を16日午前10時半から午後4時まで、浜田市の長浜まちづくりセンター(旧長浜公民館)で開く。抑留漁船員たちの証言も映像などによって公開する。入場無料。川上さん☎080(6337)8058。

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李承晩ライン宣言
 1952年李承晩が漁業資源保護を目的に一方的に発した海洋主権宣言。日本政府は直ちに抗議したが、翌年には李ラインを侵犯したとして韓国警備艇などによる日本漁船の拿捕が始まる。日本政府の国会答弁によると、日韓基本条約が発効する65年までに漁船233隻が拿捕、漁船員2791人が抑留された。 李承晩(1875~1965年)
 韓国初代大統領。海外で独立運動を率い、48年韓国建国とともに大統領に就任。朝鮮戦争後は親米・反共・反日を掲げ、3期務めた。60年不正選挙糾弾に端を発した学生革命で退陣。亡命先の米ハワイで客死した。日韓条約は第5代大統領朴正熙(パク・チョンヒ)の時代に調印された。 (2022年1月12日朝刊掲載)

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