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連載・特集

緑地帯 片山杜秀 音楽とヒロシマと私⑤

 「宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった」。でも「個人の別荘は其所此所(そこここ)にいくつでも建てられていた」。

 夏目漱石の「こころ」の一節。小説の重要な舞台となる、神奈川県の鎌倉の材木座あたりの描写だ。なぜ別荘地かと言えば、「海へは極近い」ので行楽にも保養にも便利で、しかも海岸から少し行けば高台だからである。広島の被爆を主題とした戦後日本音楽の名作、カンタータ「人間をかえせ」や交響曲第5番「ヒロシマ」の作曲者、大木正夫は、この材木座の高台に長く夫婦で暮らしていた。奥様は英子さんという。やはり作曲家だ。

 15年ほど前の夏、大木家を訪ねた。大木正夫は逝って久しい。英子さんは近所の病院で療養中だ。ご身内のご厚意で、仕事場をのぞかせていただく。自らを追い詰めるタイプの大木正夫は、漱石の「則天去私」に惹(ひ)かれていたという。だから東京からこの地に移ったのか。

 そのあと病院へ。当時80代半ばの寝たきりの英子さんに話しかける。「今度、『ヒロシマ』を、僭越(せんえつ)ながら私の企画で、香港のレコード会社が世界初録音することになりまして」。英子さんはうれしそう。私は続ける。「英子さんの民族主義的な七つものピアノ協奏曲は力作揃いで、埋もれていてはもったいない。全集録音ができたらと、念じているのですが」。英子さんはますますうれしそう。最後に握手をした。厳しくおのれを貫き、燃焼し尽くした人の手だった。

 やがて英子さんは亡くなられた。「ヒロシマ」のCDは聴いてもらえたが、英子さんのピアノ協奏曲全集は実現せぬまま。いつか必ず。(政治学者、三原・ポポロ館長=茨城県)

(2022年1月12日朝刊掲載)

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