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緑地帯 片山杜秀 音楽とヒロシマと私⑥

 「立派すぎると伝わらないこともあるんじゃないかな」。林光さんが言った。林さんは交響曲や協奏曲を作るクラシックの作曲家だが、映画や演劇の世界と深くつながる人でもあった。そのときは新劇のことをお尋ねしていた。劇団民芸の滝沢修と俳優座の千田是也のどちらが好みかとむちゃな質問をし、林さんを困らせていた。

 林さんは、滝沢を名優と褒める。超人的な演技力で役柄を完璧に作り込む。でも立派すぎると神様になってしまうとも言う。

 はて、天の万能の神様は、日常的でリアルな、人間の生々しい感覚を、上手に伝えられるだろうか。地上の小さな作業場で、ああでもない、こうでもないと、試行錯誤する、不器用な人間の方が、適任ではあるまいか。「千田さんは不器用の用を分かっていた」。晩年の林さんは、懐かしそうに言った。

 「音楽でも同じですか」。私が余計な質問を重ねると、林さんは大木正夫の「人間をかえせ」の話を始めた。「大木さんの音楽は、大編成でベートーベンのように大言壮語する感じがする。巨大な国家や科学技術に、巨大な音楽で張り合うような発想はどうなんだろう。もっとリアルな小さな音楽で、風穴をあけて行く方が、平和にもつながるのじゃないかなあ」

 林さんの代表作に、被爆者の原民喜の詩による合唱曲「原爆小景」がある。伴奏楽器もない。人の声だけで、等身大の人間の苦しみと祈りを表現しようとする。林さんは「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言いたかったのだろう。しかし、その案配の加減が実に難しい。(政治学者、三原・ポポロ館長=茨城県)

(2022年1月13日朝刊掲載)

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