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連載・特集

緑地帯 片山杜秀 音楽とヒロシマと私⑦

 ACTミニ・シアターという個性的な名画座が、東京の西早稲田にあった。名前の通りとても小さい。何十人で満員御礼。靴を脱いで上がり、カーペットの床に座り込む。スクリーンは本当に目の前。

 1980年代のある夜、大学生の私は、そこで関川秀雄監督の「ひろしま」を初めて見た。同じ広島物の原爆映画だと、新藤兼人監督の「原爆の子」には既に何度も接していたが、「ひろしま」は長らく名のみを知るだけだった。

 見たら驚いた。「ひろしま」も「原爆の子」も、被爆児童の作文集「原爆の子」を、同じく原作とする。ところが映画の作り方が対極的だ。

 新藤作品は登場人物を絞り、日常的な抑えたやりとりを重視し、8月6日の場面もかなり象徴的に処理して、被爆者の惨禍をじっくり染みてくるようにつづる。

 対して関川作品は、まるでソ連の叙事詩的大史劇。8月6日も、大勢のエキストラと大がかりなセットを用い、圧倒的規模で再現される。あまりにストレートで激烈。即座に叩(たた)きのめされる。原爆音楽に類比すると、新藤作品は林光の「原爆小景」のように内向し、関川作品は大木正夫の「人間をかえせ」のように大見えを切る具合だ。

 そして、この対極的な2作には共通要素もある。作曲が、どちらも伊福部昭。「原爆の子」では、しみじみとした悲しみの歌が少人数の楽団で、「ひろしま」では、聴く者の耳を打ちのめす勢いの強烈な哀歌が大きなオーケストラで響く。しかも「ひろしま」の哀歌のメロディーには秘密があった。それは何か。最終回に続きます。(政治学者、三原・ポポロ館長=茨城県)

(2022年1月14日朝刊掲載)

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