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社説・コラム

『今を読む』 広島大名誉教授 田村和之(たむら・かずゆき) 「黒い雨」被爆者の審査指針

許されぬ 判決の無視だ

 広島県・市は昨年12月、「黒い雨」被爆者に対する被爆者健康手帳交付に関し、厚生労働省から示された「審査の指針」を、「受け入れるほかない」と判断した。しかし次に述べるような疑問がある。

 最大の問題は、この指針が昨年7月14日の広島高裁判決によらずに策定されようとしていることである。

 判決は、「黒い雨」に遭った者は被爆者援護法にいう被爆者に該当すると判断した。その上で、広島県知事・広島市長による84人の手帳交付申請却下処分を取り消し、手帳の交付を命じた。11種類の疾病にかかっていなければ手帳を交付できないとする被告(広島県・市および訴訟に参加した厚生労働省)の主張を退けた。

 ところが指針は、広島高裁判決に従わず、「黒い雨」に遭い、かつ11種類の疾病にかかっている者に手帳を交付するとする。

 このような判決の無視は、民主主義の下では、あるまじきことである。

 おそらく厚労省は、判決はこの裁判の原告との関係の限りで拘束力を有するだけであり、原告でない者との関係では判決によらずに手帳交付の可否を判断できる―と考えたのだろう。判決が否定した、11種類の疾病にかかっていることを、手帳交付の要件に加えた。

 しかし広島高裁は、疾病にかかっていることを手帳交付の要件とする厚労省、広島県・市による援護法の解釈を誤りであると判断した。「黒い雨」に遭った者は被爆者に当たるとの結論を出し、厚労省や県市はこの判断を受け入れて上告を断念した。

 そうであれば、判決の法解釈に従うのが筋である。そうしなければ、原告以外の「黒い雨」に遭った者は、あらためて裁判を提起することを余儀なくされる。厚労省は、平均年齢が84歳となる人たちには、そんな意欲も力も残っていないと高をくくっていると見えなくもない。

 裁判審理の過程で、厚労省は、手帳交付の対象となる「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」(援護法1条3号)とは、疾病を発症したものでなければならないと主張した。

 しかし前述したように、この法解釈は退けられている。それにもかかわらず、厚労省は、みずから受け入れた判決に逆らい、疾病の発症にこだわるのは、なぜなのか。この点について、厚労省は明確な説明をしていない。

 原爆放射能の影響を受けた可能性が認められれば健康被害が生じていなくても被爆者と認め、援護法を適用して救済すべきである―とする高裁判決を受け入れると、どうなるか。原爆・核兵器にとどまらず、原発事故(原子力災害)など広く放射線被害を受けた可能性がある者を救済しなければならないことにつながる。推測するに、政府・厚労省としては、このような事態を何としても避けなければならないと考え、疾病にかかっていることにこだわったのであろう。だが、これが許されないことは繰り返し指摘した通りである。

 県は「最大限の配慮をしていただいたので指針を受け入れる」、市は「迅速な救済を図る必要があるので、指針に賛成できないが反対しない」と、厚労省へ回答した。

 県市が厚労省の指針に依拠して手帳を交付すれば、「黒い雨」に遭ったとされる約1万3千人のうち1万人が手帳を受け取れるという。

 言い換えれば、3千人は受け取れない。指針に問題はあるが、高齢化した「黒い雨」被爆者を思えば、迅速な救済の優先はやむを得ない、残される3千人はしばらく我慢してほしいというわけだ。

 しかし我慢させられる人たちも「黒い雨」に遭っているのであり、高裁判決によれば「被爆者」と認められる人たちである。この人たちも高齢化し、迅速な救済を必要としていることに変わりない。

 被爆後76年、原爆医療法の制定から64年、ようやく燭光(しょっこう)があたり始めた今、3千人の「被爆者」が、切り捨てられようとしている。

 42年群馬県富岡市生まれ。大阪市立大大学院法学研究科修士課程修了。広島大教授、龍谷大法科大学院教授を歴任。専門は行政法、社会保障法。「在ブラジル・在アメリカ被爆者を支援する会」代表世話人。著書に「在外被爆者裁判」「保育所行政の法律問題」など。

(2022年1月15日朝刊掲載)

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