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連載・特集

[ナガサキの空白 街並み再現] 壊滅前 もう一つの被爆地 長崎大RECNA、データ化

爆心地は写真収集に苦心

 長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)が昨年から、被爆前の長崎市内を捉えた写真の収集に本腰を入れている。市民から寄せられた古いプリントをデータ化し、次世代へとつなぐ試みである。そこには、広島と変わらない日常が写る。一方、カトリック教会など長崎ならではのカットもある。原爆に奪われた、もう一つの被爆地の街並みを写真で「再現」したい。(桑島美帆)

 路面電車の停留所で電車を待つ親子や、教室に集う学生たち、商店街で赤ん坊を抱いてほほ笑む少女―。昨年7月にRECNAが募集を始めて以降、県内外の17人から千点以上が寄せられた。うち関係者に聞き取りをし、場所や撮影年などが推定できた約20枚をウェブサイトなどで公開している。

 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の委託事業で、本年度予算は1320万円。2023年度までに、大正期や昭和初期に撮られた写真を収集してデジタル化とオンライン化を進め、平和教材の開発を目指す。

 「これまでは被爆証言の大半が8月9日以降に絞られ、公開写真も焼け野原が中心。原爆と戦争は切り離して伝えられがちだった」と林田光弘特任研究員(29)。「戦時中の生活、原爆被害と現在がつながっていることを示したい」

 全国の被爆者団体にも協力を求めたほか、マスメディアや会員制交流サイト(SNS)で呼び掛けてきた。特に爆心地周辺の浦上地区の写真を探しているが、苦労も多い。爆心直下の松山町は、まだ一枚も寄せられていない。

 長崎に特有の事情があるという。「壊滅した爆心地周辺は軍需工場が集まり、そもそも撮影が禁止されていたエリア」。RECNAに先駆けて約40年間、被爆前後の写真を収集している長崎平和推進協会の写真資料調査部会長、松田斉さん(66)は説明する。現存を確認しているのは、1935~40年前後の撮影とみられる長崎松山町郵便局前と、浦上天主堂へ続く松山町本通りを捉えた2枚だけだ。

 RECNAに協力して写真の撮影場所や年代の鑑定をしている松田さんは「個人宅などにまだ眠っている可能性はある」と強調する。「原爆で失われたものの大きさを知るためにも、写真は欠かせない。関係機関が連携してしっかりと集める必要がある」

戦前 活気あふれる商店街 被爆者の三瀬さん「雰囲気感じて」

 RECNAの呼び掛けに応じた一人が、被爆者の三瀬清一朗さん(86)だ。アルバムに残る家族写真のデータ10点を寄贈した。

 祖父が明治期に繁華街の築町(現賑町(にぎわいまち))で衣料品卸の「三瀬商店」を創業し、両親が引き継いだ。写真は「タヲル ハンカチ」と書かれた看板を掲げた三瀬商店や、万橋(よろずばし)で記念写真に納まる母と妹など、多くが1930年代の撮影だ。

 商店街は活気にあふれ、そばの中島川で魚釣りを楽しんだという。「金物屋さん、おもちゃ屋さん、毛糸屋さん…。百貨店みたいに何でもそろった」。生まれ育った実家の跡で、幼少期の思い出を記者に語ってくれた。

 しかし、県庁や裁判所など官公庁が集まる一帯は、44年秋以降、建物疎開の対象になる。三瀬商店も45年6月に取り壊された。国民学校5年生だった三瀬さんは宮崎県内に縁故疎開した後、8月1日になって築町の東側にある旧矢ノ平町へ移った。9日は自宅でオルガンで遊んでいた。午前11時2分、すさまじい衝撃を受けた。

 爆心地から約3.6キロ。数日後、通学していた伊良林国民学校へ行くと、男女の区別も分からないほど全身が焼けただれた人が次々に運び込まれ、並べられていた。爆心地から約200メートルの浜口町で暮らしていた伯母やいとこたち親類7人を失った。

 米軍は当初の原爆投下目標だった北九州・小倉を視界不良で諦め、三瀬商店の近くにあった常盤橋付近に照準を合わせたという。ところが雲に覆われていたため、次いで浦上地区に狙いを定めた。もしあの日も築町で暮らし続けていたら。上空が快晴だったら―。

 「せっかくいただいた命。社会の役に立ちたい」と2015年から修学旅行生たちに被爆体験を語ってきた。写真を提供したのも、同じ思いからだ。「太平洋戦争が始まる前の長崎の街の光景や、雰囲気を感じてほしい」と願う。

(2022年1月17日朝刊掲載)

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