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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <7> 粟根村から

窪田次郎 民撰議院案を構想

 中国山地から南に延びる尾根のふもとに家並みが連なる。福山市加茂町粟根の窪田次郎旧宅跡には雑草が生え、残る土蔵は屋根の一部が壊れてシートで覆われている。

 道を400メートル北にたどれば作家井伏鱒二の生家。4歳で窪田の葬儀を見た井伏は、祖父に伝え聞いた偉大な老先生に敬意を抱き続けた。

 窪田は粟根村の村医で、顧問格で福山藩政に関わる。明治4(1871)年2月、子どもが学べる初の啓蒙(けいもう)所が藩内に設けられた。同年3月、村運営の評議者を選挙で決める代議人制度が粟根村にできた。いずれも窪田発案の先進的試みである。

 福山藩は幕長戦争で長州藩の洋式銃隊に敗れ、戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に城を明け渡す。広島藩から後継藩主を招き、洋学教育を進めた。明治2(69)年に藩議院を置き、下局議員は選挙で豪農層を選んだ。

 幕末維新の敗者ゆえ、封建の過去をきっぱり否定する気概があり、窪田の革新もそれに支えられた。

 藩幹部と上京した窪田は新知識を得て明治5(72)年、小区会、大区会、県会、天朝下議院へと民意をくみ上げる民撰(みんせん)議院案を構想した。民意反映の政治の起点は「万機公論ニ決スベシ」の五箇条御誓文だった。

 明治7(74)年1月の民撰議院設立建白書が民権運動に火を付け、政府は地方官会議を開いて各地の民情を聞くことにした。兵庫県令が地方官会議への提出意見を募集との6月14日付の東京日日新聞記事に接した窪田は「わが県でも」と思い立つ。

 現在の広島県東部と岡山県西部は廃藩置県を経て小田県(県庁笠岡)になっていた。窪田は同志を誘って県民意見を集約する民撰議院の設立を矢野光儀権令(ごんれい)に願い出た。開明的な権令はこれに応じ、小田県臨時民撰議院が急きょ日の目を見る。

 窪田は、民意が反映されない政治への不満を矢野権令への書に記した。五箇条御誓文に反して政府と人民の関係は「上下隔絶」にあると述べ、地方官会議が民意をくみ取る国段階の民撰議院の手始めとなるよう求めた。御誓文のお題目化を逆手に取った主張である。(山城滋)

窪田次郎
 1835~1902年。蘭方医学を学び、父の後を継いで粟根村で診療の傍ら、先進的な住民自治や教育活動で地域をリードした。後半生は医療活動にのみ携わる。

*肖像画は広島県立歴史博物館蔵

(2021年12月2日朝刊掲載)

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