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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <8> 小田県第6大区会

台湾出兵巡り政府を批判

 郵便報知新聞は明治5(1872)年創刊の民権派在京紙。その投書欄に明治7(74)年10月14日付から5回にわたり「小田県第6大区会議決案」が掲載された。民衆の立場からの政府批判が反響を呼ぶ。

 今の広島県東部と岡山県西部にまたがる小田県は地方官会議を前に臨時民撰(みんせん)議院を設置。県民意見を小区会、大区会、県会を経て同年8月半ばに集約した。福山市北部に当たる安那郡の第6大区会の議決案は、粟根村の民権論者窪田次郎の意見を大筋で反映していた。

 特徴的なのは、天皇の下での民意尊重である。太政大臣から区戸長まで為政者は選挙で選ぶべきだと主張した。華・士族の名称廃止など四民平等の徹底、地租改正における公平性の担保も政府に求めた。

 注目すべきは同年5月からの台湾出兵への批判である。「最大の事件なのに一般人民へのご下問がない。『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ』の御誓文に背く」とし、出兵費用は自分たちだけで決定した官員が私財で弁済するよう求めた。

 東京日日新聞に反論の投書が載った。「出兵は天皇と大臣が協議して決めたことで、全てを人民と相談する必要はない」とし、官員の費用弁済を「笑うべき奇説」と皮肉った。

 3年前に琉球船が台湾に漂着して54人が殺され、前年には小田県浅口郡の4人が同様に暴行略奪された。不平士族の圧力を受けて政府は出兵を計画する。

 清との開戦を危ぶんで木戸孝允(たかよし)は参議兼文部卿(きょう)を辞め、英国も反対した。大久保利通ら政府首脳は中止命令を出す。薩摩士族に加勢を頼んでいた陸軍中将西郷従道は命令を無視して出兵し、大久保は追認した。

 反論投書の言う天皇と大臣の協議による決定ではなく、政府命令に背く薩摩閥の暴走だった。国民への周知も17日後と大幅に遅れた。第6大区会の批判は過激だったが、政府の痛いところを突いていた。

 第6大区会の議員は農村の知識人層が多く、県会は豪農商や士族層中心だった。政府を刺激するのを避けたのだろう、第6大区会の思い切った主張は小田県会の議決に引き継がれなかった。ただ新聞紙面を通じて波紋は広がった。(山城滋)

台湾出兵
 日本軍は明治7年6月に台湾の先住民を制圧したが、「化外(統治の及ばない民)」と責任回避してきた清との交渉は難航。大久保利通が北京に渡り、撤兵と引き換えに台湾出兵を清が「義挙」と認め50万両を払うことで決着した。

(2021年12月3日朝刊掲載)

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