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連載・特集

広島世界平和ミッション 第五陣の横顔 <4> 中谷俊一さん(37) 広島県本郷町

映像使って反核訴え

 飢餓でやせ細ったアフリカの子どもたちの姿―。中学生のころに見た、テレビに映し出された悲惨な光景。「同じ地球に等しく生を受けたはずなのに…。この人たちに、自分は何ができるだろう」。目に焼き付いた強烈な印象が、今でも心の原風景としてある。

 同じころ、平和学習の一環で原爆記録映画「にんげんをかえせ」を見た。映像を通して被爆の実情に触れるたび、「核戦争による被害も、飢餓もなくさなくては」との思いが強まった。

 訪ねるインドと隣国パキスタンは、互いに核開発競争に力を注ぐ一方で、社会基盤の遅れや多くの貧困層を抱える。「市民はこうした現実をどう感じているのか、自分の目で確かめたい」

 京都の大学を卒業後、東京の映画制作会社に就職。反戦をテーマにした映画の宣伝普及などにも携わった。そんな体験から、映像が人々の反核・平和意識を高める手段になると実感した。

 今回の訪問でも、広島・長崎の被害を伝えるビデオや写真、イラストなどを使った「視覚での訴えが大切」と準備に当たる。

 十二年前、家庭の事情で古里の広島県本郷町にUターン。東広島市の職員として働く傍ら、大学の平和学講座を受けるなどしてきた。

 印パ両国の核兵器保有の背景などを学びながら、両国の人々の心には核兵器や憎悪を「捨て去る」ことへの葛藤(かっとう)があるのではないかと感じ始めた。「ヒロシマはその心を解きほぐす手だてを持っているはず」と確信する。

 原爆は祖父を奪った。八月六日は、実家の本郷町にいて助かったものの、軍の召集がかかって廃虚の街へ。救護活動に当たり、残留放射線を浴びて被曝(ひばく)。間もなく大量の吐血をして亡くなった、と母から聞かされて育った。

 当時の広島には、無惨なそんな死と別れ、悲しみが無数にあった。しかし、悲しい体験を幾つも重ねてきたからこそ、その後の広島の人たちが「戦争も憎しみも『捨て去る』勇気を持ち、痛みを優しさに変える教育をしてきた」と思う。

 その体験を一人でも多くのインド人やパキスタン人の心に届けたい。「広島の平和教育の経験を伝え、現地の学校に教材を提供したりしながら、共に平和をつくり出すことができれば…」。柔和な表情に決意をにじませる。

(2005年1月19日朝刊掲載)

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