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連載・特集

広島世界平和ミッション ボスニア・ヘルツェゴビナ編 紛争を超えて <1> 狙われた市民 手足も思い出も失った

 ムスリム、セルビア、クロアチアの主要三民族が入り乱れた「隣人殺し」の悲惨な紛争終結から約十年。広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第四陣は昨年十月二十七日から十一日間、民族紛争が吹き荒れたボスニア・ヘルツェゴビナを訪ねた。あちこちに弾痕が残る町々で、復興への取り組みは続く。民族間に横たわる「不信と報復」の連鎖は断ち切れるのか。メンバー四人は、紛争被害者らとの交流を通して、広島の体験を伝えるとともに、「和解」による確かな平和を築くための方策について語り合った。(文・岡田浩一 写真・野地俊治)

 「意味のない、ばかげた戦争だったよ」。パソコンインストラクターのサミル・チェリックさん(30)は、投げ出すようにつぶやいた。一九九二年九月朝、サラエボの自宅玄関先で右足を失った。「空模様を見ようと外に出たら、三百メートル先に潜んでいたセルビア側の狙撃手に機関銃で撃たれた」

1200人が登録■

 彼に会ったのは、オーストリアに本部のある人道支援団体「HOPE(ホープ)87」サラエボ支部。紛争が始まった九二年から、砲弾や地雷で手足を失った人の治療やリハビリを続けている。登録された被害者は、約千二百人に上る。

 現在は、日本の国際協力機構(JICA)とオーストリア政府の支援で、被害者の雇用促進を目的にパソコン技術や英語などを身につける教育プログラムも手掛ける。

 チェリックさんはここの「卒業生」。編集者として地元新聞社で働いた後、支部のインストラクターになった。ミッション一行が訪ねた日は、診療室で電気治療を受けていた。「義足の重さが六キロもあるので、背中が痛くなって」と苦笑する。

 赤外線治療を受けていた高校生のエミラ・カラホジャさん(17)も左足が義足だ。九三年秋、戦渦に巻き込まれた古里から家族で逃げ出した先で被災した。家の前で姉三人と遊んでいたら迫撃砲を撃ち込まれ、二人の姉を失った。今も母と生き残った姉と住まいを転々とする生活が続く。

 「紛争で父と姉たち、自分の足を失ったことが一番つらい」とカラホジャさん。人生で楽しかった思い出を尋ねると、考えた末に「ない」と答えた。将来は同じ犠牲者を助けるソーシャルワーカーになりたいという。

憎しみ克服■

 紛争で会社が閉鎖された後、被害者支援に身を投じるようになった元機械技師で支部長のフィクレット・カルキンさん(57)。原爆ドームのタペストリーが壁に飾られた事務室で、これまでの活動を振り返った。

 重傷の子どもをチャーター機でドイツへ搬送するため、銃弾が飛び交う中を車で最前線近くの空港まで送ったり、工場から義足五百個を運んだこともあるという。

 被爆者の森下弘さん(74)が、持参した原爆写真を示して体験を語った。カルキンさんが尋ねた。「米国への憎しみをどう克服したのですか」と。

 森下さんは、自分の子どもが生まれたり、体験を次世代に語るうちに心が癒やされ、「憎しみより平和を求める気持ちが強くなった」と心の変化を口にした。カルキンさんは、うなずきながらボスニアの失業率が約40%に達していると話し、「生活が厳しい中で憎しみ合っている場合ではない」と力を込めた。

 カルキンさんは最後に「若者に悲しみを克服した被爆者の話をしてやりたい。この原爆写真セットをいただけませんか」と申し出た。この国でヒロシマを伝える旅を始めたばかりのメンバーは「帰国後に必ず送ります」と約束した。

(2005年2月7日朝刊掲載)

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