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連載・特集

広島世界平和ミッション ボスニア・ヘルツェゴビナ編 紛争を超えて

「民族浄化」から共生へ

 「モザイク国家」と呼ばれた多民族国家の旧ユーゴスラビア。その解体に伴い、一九九一年から翌年にかけ五カ国が相次いで独立した。その一つボスニアは九二年四月、支配地域拡大を競うムスリム、セルビア、クロアチアの主要三民族が三つどもえで戦う泥沼の紛争に突入した。大量虐殺、強制収容、組織的レイプ…。互いに他民族を根絶やしにしようとする「民族浄化」の嵐は、三年と八カ月間吹き荒れた。死者二十万人、難民は国民の半数に当たる二百万人余に達した。広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第四陣は昨年十月下旬から十一日間、ボスニア・ヘルツェゴビナを訪ね、欧州で第二次大戦後「最悪」と呼ばれたボスニア紛争の一端に触れた。傷跡とともに、民族が共生する「一つの国家」への復興の足取りを報告する。(文・岡田浩一 写真・野地俊治)

踏みにじられた五輪の街

競技場に砲弾の雨

 教会、モスク、ホテル…。建物の壁に弾痕が残る。首都サラエボの街並みは今も、激しい包囲戦の跡を刻む。

 サラエボは、一九八四年の冬季五輪開催地として知られる。紛争が始まった当時の人口は約五十万人。多民族が共存していた山あいの平和都市は九二年四月、突然、主要民族の一つであるセルビア人勢力に包囲された。

 四方の丘には戦車二百五十台、迫撃砲百二十門が並び、砲弾の雨を無差別に降らせた。建物は崩れ落ち、路上の市民は狙撃手の標的となった。

 市の東北部にある「ゼトラリンク」。五輪で閉会式が開かれたアイススケート場は同年六月、約九百発の迫撃砲弾を受けて大きなダメージを受けた。地階には家を焼かれた千百人が避難していたが、幸い無事だった。

 警備主任のミズドラク・ネルミンさん(44)は、砲撃中も必死でスケート場の備品を運び出した。「素晴らしい思い出の詰まるリンクが変わり果てた姿に、職員は泣くしかなかった」と振り返る。

 リンクにはその後も難民が寝泊まりした。行き場所とて、ほかになかった。砲撃は続いたが、ネルミンさんらは職場を捨てなかった。外部と寸断された街ではガソリンが不足していた。職員は毎日、徒歩で通勤した。

 約五百メートル離れた北側の丘からも狙われた。職員は丘の南側にある地下駐車場入り口から入り、空気ダクト沿いの通路から事務室へとたどり着く。「電気がなく、通路は真っ暗闇。そんな日常が想像できますか」とネルミンさん。電池は貴重品だったので懐中電灯も使えなかった、という。

 包囲が完全に解けたのは、三民族による和平協定締結三カ月後の九六年三月。ネルミンさんは四年にわたる包囲戦で同僚十一人を失った。

 悲劇はリンク周辺だけでなく、サラエボの街一帯で繰り広げられた。生鮮市場では六十七人が一度に亡くなった。そのそばの市電が走る交差点では四十三人が殺された。沿道のビルの上階に狙撃手が潜む目抜き通りは「スナイパー(狙撃手)通り」と呼ばれるようになった。

 民間調査では紛争中に犠牲となったサラエボ市民は一万人余。手足を失うなど負傷者は五万人に達した。

 リンクは欧州連合などの支援で九九年にほぼ元通りに再建された。冬季は延べ七万人の家族連れらでにぎわう。が、隣接のサッカーグラウンドは今も、犠牲者の墓地になったまま。数え切れぬほどの白い墓標が並ぶ風景は、二度と元に戻る日はない。

戦場都市の「旅ガイド」本

包囲下 人間らしさ貫く

 「やあ、元気かい」。FAMA(ファマ)代表のスアダ・カピッチさん(45)がカフェの並ぶ繁華街を歩くと、道行く人々から次々と声がかかる。サラエボの有名女性だ。

 FAMAは、セルビア・クロアチア語で「うわさ」や「伝説」を意味する。紛争前は独立メディアプロダクションとして、風刺が効いた政治番組を制作するなど活躍していた。そして、包囲戦最中の一九九四年、本国をはじめ日本や米国でも出版されたのが「サラエボ旅行案内 史上初の戦場都市ガイド」だった。

 電気や水道が断たれた街でいかに生き残るかがテーマ。路上の遺体、黒煙が上がるビル、救援物資に群がる人々…。ガイドには、包囲下の厳しい生活をとらえた写真が並ぶ。

 一方で市民が水を求めて歩き回る習慣を「ピクニック」に例えるなど、文章には悲痛なユーモアがあふれる。カピッチさんは「ユーモアは悲惨に押しつぶされずに生き残る手段だった」と振り返る。

 包囲開始から一カ月後、彼女は「包囲戦は人類がこれまで遭遇したことのない体験」と直感。若手の芸術家ら約百人を集めて、写真撮影や市民へのインタビューを始めた。

 サラエボの街は一日千回余の砲撃を受けた。「二十四時間標的にされた。寝室でも犠牲になる可能性があった」と真顔で話す。

 しかし、市民は可能な限り日常生活を貫いた。「会社員は暖のない氷点下の職場に通い、役者は演じ、学生は登校し続けた」。カピッチさんたちはろうそくの明かりで、ファッションショーも開いた。「人間らしさを捨てない努力は、巨大な暴力に対するサラエボ市民の戦いであり、市民はそれに勝利した」と言い切る。

 紛争後、カピッチさんは市民千三百人から体験を集めデータベースをつくった。日本大使館の資金援助を受けたという。その成果を「サラエボ包囲百科事典」に編さん。今後は写真集とセットで、世界の図書館などに寄贈する計画を進めている。

 「サラエボの経験は、無差別に市民を狙うテロに対する生き方を創造した。広島・長崎の人々なら、なおさら私の取り組みの意義を分かってもらえるはず」と、鋭い光をたたえる目元を緩めた。

死者20万人 独立が引き金 対立激化

 主要三民族の間で最も大きな差は宗教だ。セルビア人はセルビア正教、クロアチア人はカトリック、ムスリム人はイスラム教を信じる。ムスリム人はオスマン帝国支配時代に改宗した人々である。外見上、三民族の差はほとんどない。

 セルビア語はキリル文字、クロアチア語とボスニア語はアルファベットを使う。が、話し言葉は語彙(ごい)が少し異なるだけで、日常会話を互いに交わすのに支障はない。地元の人でさえ名前や住所から相手の民族を察する。

 旧ユーゴスラビアは、建国の父チトー大統領の死去(一九八〇年)に続くソ連の崩壊(九一年)で解体。クロアチアなど三カ国が九一年に独立を宣言。ボスニアと新ユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)も九二年に続いた。

 ボスニアの独立は、セルビア人が棄権した住民投票で決められた。それを機に、セルビア人と他の二つの民族が対立。その後、ムスリム人とクロアチア人の間でも戦い始めた。

 セルビア人は隣国の新ユーゴ、クロアチア人も隣国クロアチアが支援。ムスリム人はイスラム諸国の義勇兵(ムジャヒディン)が加勢し、紛争は泥沼化した。町々によって、敵対した民族の組み合わせや戦闘の様子、被害が異なる。「勝者なき戦い」といわれるゆえんである。

 北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア勢力への空爆など国際的な介入を経て、九五年に和平協定が結ばれた。

 国内は現在、ムスリム人とクロアチア人の「ボスニア連邦」と、セルビア人の「スルプスカ共和国」という二つの政治主体に分かれ、それぞれが軍隊と警察を持つ。主要民族の代表からなる閣僚評議会が中央政府の役割を果たしているが、力は弱い。国家元首に当たる大統領評議会議長は三民族の代表が八カ月ずつ務めている。

NGO「真実と和解」代表 ヤコブ・フィンツィさん(61)

平等・共通の歴史確立を

 ―「真実と和解」を設立した目的は何ですか。
 一般的な戦争には勝者と敗者があるが、ボスニアは全国民が敗者だ。時がたてば、政治家は自分の民族に有利な紛争の歴史を語りだす。一つの国家として再生するためには、主要三民族に平等な共通の歴史が必要だ。それを確立するためにつくった。

 ―具体的な活動は?
 兵士、被害者、紛争中に善い行いをした人の三グループから証言を集めて、データベース化する。今年中に正式な委員会を設立し、全国十三カ所に証言集めの拠点を設ける。証言集も出版する計画だ。兵士の中にはやむなく人を殺し、いまだに眠れない夜を過ごす人もいる。兵士も紛争の被害者だ。証言は兵士にとって「許し」となり、被害者には「癒やし」となるだろう。

 ―組織はどうなっているのですか。
 紛争中、全国百余りの市民団体が集まって復興への道を話し合った際、このアイデアが生まれた。紛争後にまた一緒に暮らすことは、当時から明白だったからだ。この流れを受けて二〇〇〇年、市民グループの連合体として「真実と和解」が設立された。委員会スタート後は、国や海外からの援助で運営を賄う。

 ―民族間の和解は難しい課題ですね。
 そう。建物の復興は進んでも、人々の心の中には深い傷が残っている。和解が簡単に進むとは思っていない。でも、市民の力を集めて必ず実現する。戦争の悲劇を体験した広島、長崎の人々の意見も参考にしていきたい。

 <プロフィル>クロアチア生まれ。サラエボ大卒業後、66年から弁護士として働く。95年にボスニア国内のユダヤ人コミュニティー初代会長に就任。現在は人道援助の専門家として講演活動を幅広く続けている。

ボスニア・ヘルツェゴビナの歩み

 6世紀     スラブ人が定住を始める
14世紀     ボスニア王国を確立
1463年    オスマン・トルコによって征服される
1878年    オーストリア・ハンガリー帝国に占領される
1908年    同帝国に併合される
  14年 6月 サラエボで同帝国皇太子夫妻をセルビア人青年
         が暗殺。第一次世界大戦の引き金となる
  19年 9月 オーストリアから分離。クロアチアなどととも
         にセルビア王国に組み入れられ、ユーゴ王国を建国
  45年 5月 ドイツから自力で解放してユーゴスラビア連邦
         人民共和国(旧ユーゴ)を建国
  63年    ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ
  92年 3月 旧ユーゴからの独立を宣言
    同 4月 セルビア人勢力がサラエボを包囲
    同 6月 国連防護軍が派遣され、サラエボに初の援助物
         資が届く
  93年 4月 反セルビア軍事同盟を結んでいたムスリム、ク
         ロアチアの両陣営が戦闘状態に突入。
  94年 4月 北大西洋条約機構(NATO)がセルビア人勢力に限定的空爆を開始
    同12月 カーター元米大統領が国連特使としてボスニア
         を訪問
  95年 1月 4カ月の停戦発効
    同 5月 停戦期限切れとなり、戦闘再開
    同 7月 男性8000人がセルビア人勢力に連れ去られ
         て行方不明になる「スレブレニツァの大虐殺」が起こる
    同 8月 NATOが大規模な空爆を実施
    同11月 米オハイオ州デイトンで、主要3民族の首脳が
         包括和平案に合意して仮調印
    同12月 フランス・パリで包括和平協定に調印
  96年 3月 セルビア人勢力がサラエボ包囲を完全に解く
    同 5月 オランダ・ハーグで旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷
         開始、現在も継続中

(2005年2月7日朝刊掲載)

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