広島世界平和ミッション ボスニア・ヘルツェゴビナ編 紛争を超えて <2> 唯一の脱出口 危険冒し妻の元に帰る
05年2月8日
サラエボ市の中心部から南西へ約九キロ。ミッション第四陣メンバーを乗せた車が、サラエボ空港のフェンス沿いに走る。しばらくすると、迷彩色の網で覆われた穴だらけの民家が目に入った。
レンガ造り二階建てのこの家の軒先から「トンネルB」は始まっていた。全長八百メートル。空港の下をくぐって出た先はムスリム人が支配する地域である。
一九九二年に始まった約四年にわたるサラエボの包囲戦は、ボスニア紛争の中でも特殊な状況だった。民族は違っても、長年仲良く暮らしてきた市民は「サラエボっ子」として街に残った。包囲したセルビア人勢力は、同じ民族の人たちにも容赦なく攻撃を加えた。
トンネルはサラエボを守っていたボスニア政府軍が九三年、セルビア人勢力の狙撃を避け包囲網を抜け出す道として、四カ月がかりで掘った。
トンネル入り口の地面には今も、迫撃砲弾の破片がめり込んでいる。木の階段を伝って下りる。内部は幅一メートル、高さ一・六メートル。包囲戦中は主に医薬品や食料を街へ運び込むために使った。利用者は一日三千人。大半は兵士や人道援助活動の関係者が占めた。
参加命懸け■
一般市民はボスニア政府軍が発行する通行許可書が必要だった。その上通るには十分な理由か、袖の下が求められたという。
サラエボ県文化省の職員ブラノスラブ・ツラノゴラッツさん(52)は九二年、バルセロナ五輪に参加する柔道代表チームのトレーナーとして、選手らと一緒にサラエボを脱出した。
当時はまだトンネルがなかった。総勢二十八人が深夜、空港の滑走路を突っ切った。セルビア側に見つかれば撃たれる。「転んでもすぐに立ち上がって走る。その時の恐怖は説明しきれない」と、昨日の出来事のように振り返る。
五輪を終えた一カ月後、電気も水も食料も乏しい危険な街に帰ってきた。「帰る決意を固めるのはつらかった」と言う。チームの十五人はドイツやカナダに逃れた。
ツラノゴラッツさんには古里を捨てられない理由があった。当時、妻は迫撃砲の攻撃で足を負傷しており、置き去りにはできなかった。
九五年に東京であった柔道世界選手権には、トンネルをくぐって参加。再び帰った。「この街に家族も財産もある。サラエボは私のすべてだから…」と笑顔を見せる。
ツラノゴラッツさんはセルビア人である。同じセルビア人の陣営に駆け込むこともできた。が、サラエボっ子として攻撃に耐える道を選んだ。
「セルビア側が仕掛けた戦いは間違っていた。西側諸国へ脱出することはあっても、セルビア側へ逃げるつもりはなかった。弱い者の側につくのが性分だから」。淡々と武道家精神をのぞかせた。
柔道が支え■
現在は国内の柔道協会の会長も務める。紛争中の過酷な日々の中でも、練習を続けた。「柔道が生きる支えだった」。それだけに、荒廃した母国の若者たちに柔道を広めたいとの願いはひとしお強い。現在、ボスニア国内の柔道クラブは四十カ所、約四千人が練習に励む。
ツラノゴラッツさんは昨年四月、「日本ボスニア友好協会」を設立、会長に就任した。協会代表者六人とメンバーの交流晩さん会では、被爆者で書家の森下弘さん(74)が協会員の希望する文字を書き、プレゼントした。
文字は「柔」と「平和」。「柔」は一行がボスニアを飛び立った翌日、サラエボで開かれた「ボスニア日本国際柔道大会」のポスターのデザインに取り入れられた。
(2005年2月8日朝刊掲載)
レンガ造り二階建てのこの家の軒先から「トンネルB」は始まっていた。全長八百メートル。空港の下をくぐって出た先はムスリム人が支配する地域である。
一九九二年に始まった約四年にわたるサラエボの包囲戦は、ボスニア紛争の中でも特殊な状況だった。民族は違っても、長年仲良く暮らしてきた市民は「サラエボっ子」として街に残った。包囲したセルビア人勢力は、同じ民族の人たちにも容赦なく攻撃を加えた。
トンネルはサラエボを守っていたボスニア政府軍が九三年、セルビア人勢力の狙撃を避け包囲網を抜け出す道として、四カ月がかりで掘った。
トンネル入り口の地面には今も、迫撃砲弾の破片がめり込んでいる。木の階段を伝って下りる。内部は幅一メートル、高さ一・六メートル。包囲戦中は主に医薬品や食料を街へ運び込むために使った。利用者は一日三千人。大半は兵士や人道援助活動の関係者が占めた。
参加命懸け■
一般市民はボスニア政府軍が発行する通行許可書が必要だった。その上通るには十分な理由か、袖の下が求められたという。
サラエボ県文化省の職員ブラノスラブ・ツラノゴラッツさん(52)は九二年、バルセロナ五輪に参加する柔道代表チームのトレーナーとして、選手らと一緒にサラエボを脱出した。
当時はまだトンネルがなかった。総勢二十八人が深夜、空港の滑走路を突っ切った。セルビア側に見つかれば撃たれる。「転んでもすぐに立ち上がって走る。その時の恐怖は説明しきれない」と、昨日の出来事のように振り返る。
五輪を終えた一カ月後、電気も水も食料も乏しい危険な街に帰ってきた。「帰る決意を固めるのはつらかった」と言う。チームの十五人はドイツやカナダに逃れた。
ツラノゴラッツさんには古里を捨てられない理由があった。当時、妻は迫撃砲の攻撃で足を負傷しており、置き去りにはできなかった。
九五年に東京であった柔道世界選手権には、トンネルをくぐって参加。再び帰った。「この街に家族も財産もある。サラエボは私のすべてだから…」と笑顔を見せる。
ツラノゴラッツさんはセルビア人である。同じセルビア人の陣営に駆け込むこともできた。が、サラエボっ子として攻撃に耐える道を選んだ。
「セルビア側が仕掛けた戦いは間違っていた。西側諸国へ脱出することはあっても、セルビア側へ逃げるつもりはなかった。弱い者の側につくのが性分だから」。淡々と武道家精神をのぞかせた。
柔道が支え■
現在は国内の柔道協会の会長も務める。紛争中の過酷な日々の中でも、練習を続けた。「柔道が生きる支えだった」。それだけに、荒廃した母国の若者たちに柔道を広めたいとの願いはひとしお強い。現在、ボスニア国内の柔道クラブは四十カ所、約四千人が練習に励む。
ツラノゴラッツさんは昨年四月、「日本ボスニア友好協会」を設立、会長に就任した。協会代表者六人とメンバーの交流晩さん会では、被爆者で書家の森下弘さん(74)が協会員の希望する文字を書き、プレゼントした。
文字は「柔」と「平和」。「柔」は一行がボスニアを飛び立った翌日、サラエボで開かれた「ボスニア日本国際柔道大会」のポスターのデザインに取り入れられた。
(2005年2月8日朝刊掲載)