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社説・コラム

『潮流』 論語と「有朋堂」

■呉支社編集部長 道面雅量

 新1万円札の肖像となる実業家の渋沢栄一は、「論語(道徳)と算盤(そろばん)(経営)」の合致を説いたという。論語は、儒教の核となる孔子とその弟子たちの言行録。渋沢は昨年のNHK大河ドラマでも取り上げられ、論語の人気は上向いたのではないか。

 ここ数年、私も論語を枕元に置いて読み返している。ただ、きっかけは渋沢ではなく、米国出身の著者による一冊の新書。「儒教に支配された」存在として韓国人、中国人をおとしめ、引用するのもはばかられる扇情的な題名の本だが、大ベストセラーになった。当方のあまのじゃくが頭をもたげ、儒教とは何かもっと知りたい、きっと面白いぞと直感したのだった。

 渋沢も手助けしてくれる今、あらためて論語の価値を唱える必要などないだろう。昔、教科書でかじった程度だった原文に触れながら、イエス・キリストの誕生から500年も前に、人間社会の倫理を巡る考察をこれほど研ぎ澄ませ、味わい深く説いた人がいたことに感嘆を重ねている。

 うなった言葉を挙げればきりがないが、一つだけ紹介する。「徳をもって怨(うら)みに報いるのはどうか」と問われた孔子の答え。「だとしたら何をもって徳に報いるのか。怨みには直(誠実、率直)で報い、徳に徳で報いるのがいい」。韓国人や中国人の「反日」に、徳や直どころか「嫌韓・嫌中」で倍返しせよとあおるような、先の新書の著者に進呈したい気がする。

 私事になるが、先日、母を80歳で亡くした。みとりの日々、竹原市の実家に通ううち、母が若い頃に家で営んだ小さな古書店の名が「有朋堂」だったのを思い出した。もちろん、論語冒頭にある「朋(とも)有り遠方より来(きた)る、また楽しからずや」に由来する。すっかり忘れていた私は、論語が戒めている不孝者というしかない。

(2022年1月25日朝刊掲載)

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