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広島世界平和ミッション ボスニア・ヘルツェゴビナ編 紛争を超えて <6> 日本の支援 バスや「民宿」 心つなぐ

 青い水をたたえたネレトバ川に、アーチ形の白い橋が映える。両岸に茶色いレンガの家並み。イスラム寺院の尖塔(せんとう)やカトリック教会の塔がそびえる。ミッション第四陣メンバーは、谷間の風景にしばし見とれた。

 橋は長さ約三十メートル、幅約四・五メートル。水面からの高さは約二十メートル。石灰岩のブロック約千個を積んで造られている。

 紛争中、モスタルのムスリム人とクロアチア人は、川を挟んで銃を向けた。メンバーがこれまで訪れたサラエボやスレブレニツァとは異なる構図だ。

「隣人殺し」■

 「モスタルの人々は肉親や友を殺した相手を知っている」といわれる。文字通りの「隣人殺し」だ。近しい間柄だけに憎しみも膨らみ、戦いは激烈だった。一九九三年十一月、橋はクロアチア勢力によって爆破された。

 紛争前は、ムスリム人とクロアチア人は橋の両岸に混在していた。が、紛争が始まるとそれぞれ対岸に居住区を構え、交わり合うことがなかった。橋の復興は、物心両面で再び二つの民族を結びつける「懸け橋」となる。

 日本政府は約三年前に両居住区統一のバス公社設立を条件に、バス三十六台を供与した。車体の側面に日の丸を付けた黄色いバスが、居住区の境を越えて行き来する。

 サラエボとバニャルカの二都市に対しても、計百十四台のバスを提供している。メンバーは「日本の支援が目に見える」とバスの活躍を喜んだ。

 橋のたもとに立ち並ぶカフェや土産物店に立ち寄った後、車で五分ほど離れた旧市街の一角へ移った。通称「ヒロシマ通り」。沿道の五階建ての建物の半分が崩れ落ちている。がれきも当時のまま残る。執拗(しつよう)な破壊のつめ跡に息をのんだ。

 一行はその後、モスタルの南東十キロにあるブラガイへ。国際協力機構(JICA)がエコツーリズム・プロジェクトとして昨年九月から支援する「民宿」を体験した。

 JICAは経済復興策として、一帯に民宿経営を呼びかける。家屋の補修、山歩きやカヌーなどのポイントを記した観光パンフレットの作製、看板づくりなども助けた。

 民宿は現在十軒。二手に分かれたメンバーのうち、一組が泊まったのはオスマン・トルコ時代の十六世紀に建てられたしっくい造りの邸宅だった。庭先には川が流れ、アヒルが遊ぶ。

 いつも笑顔のアルミエット・ミラビッチさん(24)は父からこの家を借り、一人で切り盛りしている。軒下のテーブルを囲み、濃いトルココーヒーを味わいながら会話が弾んだ。

ガイド養成■

 「紛争中、この家はラジオ局として貸していた」。手紙も電話も通じない中、市民がやって来てマイクに向かう。親類や友人に消息を伝える最も確実な方法だった。

 ミラビッチさんは「ここの観光は伸びる可能性がある。ただ、ぼくの欧米の友人ですらいまだに、ボスニア人は人殺しの方法しか考えていないと思っている」と嘆く。それだけに日本へは「今のボスニアの姿を伝えてほしい」とメンバーに頼んだ。

 JICAは観光地の説明板の設置、ガイドの養成なども手掛ける。PR用のホームページを作る作業では、どの民族の言葉を使うかでもめた。牛乳の集荷事業でも、当初は村同士が共同作業を拒んだ。が、実利を優先させる手法によって、徐々に地域のきずなは回復に向かってきた。

 市民運動家の小畠知恵子さん(52)は「危険なイメージをぬぐい去れば、観光旅行慣れした日本の中年層にも新鮮に映るはず。帰ったら早速、知り合いを誘う」と支援のアイデアを巡らせていた。

(2005年2月15日朝刊掲載)

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