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広島世界平和ミッション ボスニア・ヘルツェゴビナ編 紛争を超えて <7> 一つ屋根の下 和解の心 育てる学びや

 モスタル・ギムナジウム普通科高校は、両民族がにらみ合ったネレトバ川の西岸にある。クロアチア側の高校だった。

共通授業も■

 東岸のムスリム側の高校と統合し、現在は十五―十九歳の四百五十人が学ぶ。民族の内訳はほぼ半数ずつ。セルビア人の生徒も約四十人通う。

 三階建ての校舎の壁は銃弾の跡で穴だらけ。最上階の天井は一部がまだ抜けている。修復後はさらに二百人のムスリム人生徒が加わる。ディンコ・ミリチェビッチ校長(60)は「この学校は他民族をつなぐ鎖になる」と期待を膨らませた。

 民族共通の授業はまだ七割程度。国語などは別の教室で受ける。互いの理解を深めるために週二回、「民主主義と人権」の授業を取り入れているが、やはり民族別だ。

 「この授業こそ一緒にやるべきだと思うのですが…」。広島大大学院生のアンナ・シピローワさん(28)の問い掛けに、ミリチェビッチさんは「一緒にしたいと思うが、紛争の傷は深い。他民族の教師が教えるのは難しい」と現状を説明。「今は一つ屋根の下で学ぶだけでも意義は大きい」と強調した。

 平和授業の教室にはムスリム、クロアチア両民族の生徒十二人が集まった。被爆者で元高校教員の森下弘さん(74)が、原爆による広島の破壊の様子を語ると、生徒たちは熱心に聞き入った。

 「二度と悲劇を繰り返さないように平和教育に取り組んできた。同じ悲劇の体験者として、平和のために働きましょう」。森下さんの呼び掛けにミルナ・ゴロシュさん(18)は「人間は過去をすぐ忘れてしまう。何ができるかまだ分からないけれど、被爆者の話を聞けてよかった」と話した。

 廊下に出ると、地元小学校の教員ブラジェンカ・コマディナさん(34)が待っていた。国内の教員八人と昨年十月、広島を訪問。被爆者団体やミッション第一、二陣メンバーとの意見交換、学校現場の視察などを通して、平和教育の在り方を探った。今回はその縁で駆けつけてくれた。

パネル贈る■

 コマディナさんは帰国後、地元の教員たちと平和教育のためのネットワークづくりに励む。旅の終盤を迎えたメンバーが、平和授業で使用していた被爆写真パネルを贈ると、「私たちの平和教育は始まったばかり。こんな資料が欲しかった」とパネルを抱きしめた。

 ボスニア北部の町デルベンタの中等教育センターも訪れた。日本では高校に当たる。「他民族に虐殺などを働いた」として、国際社会ではすっかり「悪者扱い」のセルビア人地域である。が、実際はここの住民たちも被害者だった。

 大柄なトリーポ・ニンチッチ校長(63)は一九九二年四月から三カ月、クロアチア人勢力によって強制収容所に入れられた。同胞は激しい拷問を受け、首をかき切られて殺された人もいる。彼が無事に収容所を出られたのは、教え子だったクロアチア兵士がかばってくれたからだ。「民族の区別なく生徒に接してきたことを思い出してくれた」とニンチッチさん。

 その経験から、スイスで開発された平和と人権教育のプログラムを独自で教室に採用した。「すべての人が被害者であり加害者。生徒が融和すれば、大人にも広がる」と期待する。書家でもある森下さんは高校二年の教室で書道を披露。生徒二十六人も筆で「平和」と力強く書き上げた。

    ◇

 憎しみの連鎖は「暴力と悲しみ」しか生まないことを実感した旅だった。奇跡的な復興を遂げた広島への期待も大きかった。

 「被爆六十年を単なるイベントに終わらせたくない。新時代の平和に向けて何をすべきか。信念に基づく個人の行動が問われている」。自らに言い聞かせる森下さんの言葉に、メンバー全員が大きくうなずいた。(文・岡田浩一 写真・野地俊治)=ボスニア・ヘルツェゴビナ編おわり

(2005年2月16日朝刊掲載)

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