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連載・特集

広島世界平和ミッション インド編 非暴力の行方 <1> カルギル兵士 「軍人として」強い意思

 広島世界平和ミッション第五陣メンバーは次の通り。(敬称略)

 被爆者 岡田恵美子(68)=広島市東区▽「アジアの友と手をつなぐ広島市民の会」代表 渡部朋子(51)=同市安佐南区▽会社員 ジェームス・ジョーセフ(48)=広島県海田町、インド・ケララ州出身▽東広島市職員 中谷俊一(37)=同県本郷町▽広島修道大4年 佐々木崇介(22)=広島市安佐南区

 広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第五陣は一月二十四日から三週間余、カシミール地方の領有権などをめぐって核対峙(たいじ)するインドとパキスタンを訪ねた。最初の訪問国インドは、かつてマハトマ・ガンジーが貫いた非暴力の精神で英国からの独立を勝ち取り、その後も非同盟諸国のリーダーとして核兵器廃絶を訴えた。その国がなぜ核兵器を開発し、保有に固執するのか―。メンバー五人が「独立の父ガンジー」の国で重ねた対話の旅をリポートする。(文・森田裕美 写真・山本誉)

 首都デリーから南西へ約六十キロ。一行は周辺に赤土と菜の花畑が広がるハリヤナ州グルガオンに、カシミールのカルギル紛争で負傷した元兵士の自宅を訪ねた。

 カルギル紛争は、印パ両国が核実験を実施した翌一九九九年夏、実効支配線(停戦ライン)を越えて侵入したパキスタン軍とみられる武装勢力に、インド軍が激しい掃討作戦を展開して起きた。この戦闘でインド軍だけでも四百人以上の死者を出すなど、全面戦争の可能性が高まった。

補償もなく■

 つえを手にし、外から帰ったばかりの陸軍元伍長のキシュン・ヤダブさん(40)は、広島からの突然の訪問団に驚きながらも、温かく迎えてくれた。玄関につながれた牛のそばを抜けると、寝室を兼ねた土間があった。ヤダブさんはそこの簡易寝具に腰を下ろすと、自身の体験をとつとつと語り始めた。

 「カルギルに二年間派遣されていた。負傷したのは九九年の七月十六日。高度六千メートル付近の山を登っていて、パキスタン軍に撃たれた」。左脚のひざから下を失った。しかし酸素が薄く、雪に覆われた過酷な環境で「その時は痛みを感じなかった」と振り返る。

 心配そうに義足を見つめるメンバーに「死傷することも考えて軍隊に入ったので仕方がない」と言う。妻と七―十六歳の三人の子ども、父母を抱える。だが、政府からは何の補償もない。

家族思うが■

 被爆者の岡田恵美子さん(68)が尋ねた。「負傷して帰還し、戦うことへの考えは変わりませんでしたか」。問い掛けには戦争でつらい思いをし、政府からも顧みられない現実に、戦争観や国家観が変化したに違いないとの期待がにじむ。

 だが、ヤダブさんの答えは彼女の期待とはほど遠かった。「軍人として軍の命令に従うまで。軍を支持することで、パキスタンのテロを防止できる。また行けと言われたら行きますよ」

 言葉にならず、ほおをぬらす岡田さんに代わって、被爆二世で市民団体代表の渡部朋子さん(51)が、彼女の思いをくみ取るようにヤダブさんに語り掛けた。「岡田さんは原爆でお姉さんを亡くしました。あなたの家族も同じように悲しいと思ったのです」

 ヤダブさんは、あらためて岡田さんを見つめて言った。「もちろん家族のことは思います。パキスタン人が同じ人間であることも知っている。でも国境を侵した敵を迎え撃つのは軍の任務です」

 核兵器についての見方も口にした。「インドは核兵器を持っているが、使うためではない。平和のために必要だから造ったのだ」

 平和を望み、その維持のために核兵器保有を肯定する―。「脅威や不安を感じて、核兵器を捨てようとしない人たちにどう働きかければいいのだろうか…」。岡田さんらメンバーは初日から、大きな宿題をもらった。

(2005年3月16日朝刊掲載)

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