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連載・特集

広島世界平和ミッション インド編 核の現状と展望 「大国」願望 見え隠れ

 インドは核拡散防止条約(NPT)が定める枠外の「事実上の核保有国」である。パキスタンとともにNPTの不平等性を訴え、その枠組みに挑んでいる。広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第五陣メンバー五人は、一月二十四日から十二日間のインド滞在中、行く先々で市民や核問題の専門家らとこの国の核保有について意見を交わした。世界の核兵器廃絶には賛成しながら、自国の保有を認める声も根強くあった。そこには核兵器を「大国の地位を証す道具」とみなす意識も見え隠れした。専門家へのインタビューなどを交えながら、インドの核の現状と展望を紹介する。(文・森田裕美 写真・山本誉)

開発拠点

住宅街に複合施設

 ムンバイ市中心部から北へ約五十キロ。トロンベイのバーバ原子力研究センター(BARC)は、住宅街のど真ん中にあった。インド核開発の拠点施設である。

 アラビア海に面した広大な敷地に、実験炉や研究炉がある。核兵器転用の使用済み核燃料の再処理も担うこの複合施設には、約五千人の科学者と一万人の技術者が働いているという。

 出発前にセンター内の視察や研究員との面会を求めたが、結局許可は下りなかった。地元の平和運動家らの協力で、車で入り口まで行ってみた。鉄扉のそばで警備員が目を光らせる。入り口から見えるのは宿舎風の建物だけだ。

 「ここは国家の軍事機密を扱う核施設。外国人が集団でうろうろしては、怪しまれて危険だ」。案内人の配慮で、車に乗ったまま前を行き来して見るだけにした。

 「こんな住宅街にあるなんて信じられない」。市民団体代表の渡部朋子さん(51)は、ため息交じりに言った。

 地元住民に「海に回れば施設が見える」と聞いて、記者とカメラマンはムンバイから仏教遺跡があるエレファンタ島へ渡った。かすむ空の向こうにそびえる煙突。白っぽい原子炉らしい建物も見える。だが、全容を目にすることはできなかった。

 ムンバイ市内で会ったBARCの元科学者プラカッシュ・ブルテさん(59)は「今は私だって施設内には入れない」と、厳しい警戒について言及した。

 ブルテさんは一九七五年から二十二年間、プルトニウムを抽出する作業などに従事した。もともと核兵器開発には反対の立場で、平和利用から軍事利用への意図を明確にする政府の姿勢に嫌気がさし、九八年の核実験の直前に退職を決めた。

 ブルテさんによると、現在国内にはBARCをはじめ、三十以上の核兵器関連施設があるという。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は、インドはこれまでに三十―四十個の核弾頭を保有しているとみている。

核政策

平和利用主張から一転

 原子力開発は、独立直後の四〇年代後半から、もっぱら平和利用を目的に始まった。一方で核兵器は保有しないが、技術は保持し、万一の場合の選択肢は残しておくという「オープン・オプション政策」を取ってきた。

 しかし、六二年の中国との戦争に敗れ、六四年に中国が核実験に成功すると、科学者の間から核兵器開発を求める声が高まった。

 その一方で国際社会の表舞台では、「建国の父」であるネール首相の下、非同盟諸国のリーダーとして核実験禁止や核兵器廃絶を訴えてきた。

 七〇年に発効した核拡散防止条約(NPT)に対しては、六七年一月以前に実験した国のみを保有国と認める差別的な条約として反発。今も加盟していない。

 七四年に初の核実験を実施したが、その時は「平和目的」であり、核兵器を製造する意図はないと説明した。だが、九八年の一連の核実験成功で、インドは世界に「事実上の核保有国」であることを示した。

 核実験後、政府は「核戦争での使用が前提ではなく、抑止により戦争回避を目指したもの」との公式見解を発表。翌九九年に公表した核ドクトリンでも「先制攻撃不使用」をうたっている。九八年以来核実験は中止しているものの、運搬手段としてのミサイル開発を含め、核開発は続けられている。

 一方、原子力発電所は現在十四基稼働しており、八基が建設中である。

パキスタンとの関係

政権交代を経て緊張緩和ムード

 カシミール地方の領有権をめぐって対立する隣国パキスタンとは、これまで三度戦火を交えた。最近では、九九年のカルギル紛争や二〇〇二年の実効支配線を挟んだカシミールでの戦闘激化に伴い、核戦争が懸念される事態にまで至っている。

 昨年五月、インドはヒンズー至上主義を唱えるインド人民党から、国民会議派を中心とした連立政権に取って代わった。パキスタン政府との対話も続け、十一月にはカシミールの兵力の撤退を開始させるなど緊張緩和ムードではある。

 しかし国内の研究者らの間では、「いくらカシミールをめぐる緊張が和らいでも、両国ともすぐに核兵器を放棄することはない」との見方が強い。

 「インドの核兵器保有は、もはや対中国、パキスタンではない。五大核保有国同様、国際社会で大国たりうる道具そのものである」。こう説明するのは、人権平和活動家で元ムンバイ工業大教授のラム・プニヤニさん(62)である。インドに核を手放させるには「時間はかかるが、国際的な平和運動と連帯し、核保有国にモラルを問い続け、国際世論を動かすしかない」と強調した。

デリー・サイエンス・フォーラム代表委員 ジャヤプラカッシュさんに聞く

不平等なNPT 加盟困難

「すべて非核国」めざせ

 インドの核政策に詳しい研究者で、民間非営利団体「デリー・サイエンス・フォーラム」代表委員のN・D・ジャヤプラカッシュさん(55)に、核拡散防止条約(NPT)に対するインド政府の立場や核兵器廃絶への見通しを聞いた。

  ―かつてインドは非同盟諸国のリーダーとして核兵器廃絶を訴えてきました。
 マハトマ・ガンジーは一九四六年に、彼の論文で原爆投下を非難した。五四年、米国がビキニ環礁で実施したブラボー実験の直後には、ネール首相がインド国会で核実験の停止を呼びかけている。その後も国際社会に、核開発は平和利用に限定するよう訴えてきた。

  ―それが核兵器保有国になり、国際的な枠組みであるNPTに反発を続けています。
 そもそもNPTも包括的核実験禁止条約(CTBT)も、インドが最初に提案したことはあまり知られていない。NPTについてインドは、①この条約は核保有国にも非核保有国にも核拡散につながるいかなる逃げ道もつくってはならない②核保有国も非核保有国も相互に平等に責任と義務を負うことを実現させなければならない③一般的で完全な軍縮の達成に向けたステップにせねばならない―を主文に掲げた草案を提出した。しかし米国などは最終文書で、この三項目を落とした。

 NPTは、インド政府に言わせると、米ロ英仏中の五大国だけが持つことを許された不平等で差別的な条約だ。同様な経緯がCTBTにもある。インドが求めてきた本当の意味で包括的な禁止条約になっていない。このためインド政府は、核軍縮に関して常に「国際社会から無視されてきた」と思っている。

  ―国際社会は「非核保有国」として、インドのNPT加盟を求めています。
 私はインドの核保有に反対の立場だが、現状のNPTに、インドが非核保有国として加盟するのは不可能だと考える。条約発効の経緯やインドの言い分を忘れ、NPT体制の問題点を再検討しないで、ただやみくもに事実上の核保有国である印パ両国に加盟を促すのは、NPTが認める核保有国の「P5」を「P7」にするようなものだ。

  ―インドがリーダーシップをとって核兵器廃絶に取り組む希望は?
 一方的な廃絶は厳しいだろう。世界の核情勢、パキスタンとの関係など、多くの国民は政府に核兵器保有の必要性を信じ込まされている。彼らを納得させるのは難しい。国内の平和運動家たちは、第一段階として印パ両国間の脅威を減らせるよう、信頼醸成に取り組んでいる。

  ―国際社会に何ができますか。
 例えば南アジアの非核兵器地帯の設置だ。核を持っている国が持たない国を攻撃しない確約をするなど、脅威をなくす努力をしなくてはいけない。冷戦期とは違い、米国一国が力を持つ今の国際情勢において、地域的な核軍縮はあまり意味を持たない。米国を含めたすべての国が核兵器の使用禁止に合意し、続いてコンピューター・シミュレーションも含めたすべての核実験をやめる。兵器用核分裂性物質の生産、ミサイル開発や武器売買もやめる。保有国と非保有国の不平等をなくし、すべてを非核国にする方向で動かなくてはいけない。

 <プロフィル>ジャワハルラル・ネール大卒。在学中からベトナム反戦運動などに取り組む。専門は軍縮や開発など主に科学分野でのインドの政策。「核軍縮と平和のための全インド連合」調整委員。

インドの核開発年表

1945年 8月 広島・長崎に原爆投下
     12月 ホミ・バーバ博士らの働きかけで民間機関「タタ基礎研究所」が設立され、原子力開発研究が始まる
  46年    マハトマ・ガンジーが自ら発行の雑誌「ハリジャン」で、原爆投下非難の論文を発表
  47年 6月 原子力庁創設(後の原子力省)
      8月 英国植民地下のインドからパキスタンが14日に分離独立。15日にはインドも。ジャム・カシミール地方も一国家として独立
     10月 ジャム・カシミールをめぐり第一次印パ戦争起きる
  48年 4月 原子力法が国会で可決され、8月に原子力委員会が発足。委員長にバーバ博士就任
  49年 7月 印パ両国が停戦ラインに合意(カラチ合意)。双方とも軍隊撤退を拒否
  50年 1月 インドが非宗教に基づく共和国憲法採択
  54年 1月 原子力委員会がトロンベイに原子力研究施設(AEET)を設立。タタ基礎研究所の原子力部門を独立、発展させたもの
  56年 8月 トロンベイのAEETに建設したインド初の研究用原子炉が運転開始
  62年 9月 中印戦争起きる
  64年    トロンベイの核燃料再処理施設運転開始。翌65年にプルトニウムの抽出に成功▽中国が初の核実験をしたのに関連し、バーバ博士が「インドも1年半以内に原爆製造は可能」と言明
  65年 9月 第二次印パ戦争起きる
  66年 1月 バーバ博士が飛行機事故で死亡
  67年 1月 AEETが「バーバ原子力研究センター(BARC)」に名称変更
  69年10月 米国の技術援助による国内初のタラプール原発1、2号機が運転開始
  70年 3月 核拡散防止条約(NPT)発効▽インドの科学者、経済学者、国防専門家グループが政府に核兵器の生産勧告
  71年12月 第三次印パ戦争起きる。東パキスタンがバングラデシュとして独立
  72年 7月 印パ両国が71年12月時点の停戦ラインを「LINE OF CONTROL(実効支配線)」として合意(シムラ合意)。現在の暫定国境
  74年 5月 インドが「平和目的」として初の地下核実験を実施
  77年 6月 インドのデサイ首相が「すべての核実験を行わない」と言明
  95年    NPT再検討会議で、NPT体制の無期限延長決まる。インド政府は「核のアパルトヘイトだ」として非難
  98年 5月 インドが地下核実験。続いてパキスタンも
  99年 2月 パキスタンとの紛争予防に向け、信頼醸成などを盛り込んだ両国首脳による「ラホール宣言」を発表
      7月 実効支配線を越えたパキスタン軍とみられる武装勢力とインド軍との戦闘起きる(カルギル紛争)
2001年12月 イスラム過激派がインド国会を襲撃。カシミールの緊張高まる
  02年 5月 カシミールの実効支配線付近での戦闘激化。印パ両国の軍事衝突の可能性も
  04年 1月 印パが旅客機の相互乗り入れ再開
  04年 5月 インド国民会議派を中心とした新政権誕生
     11月 インドがカシミールの兵力撤退開始
  05年 2月 印パ両政府が、4月7日からカシミールの実効支配線を越える直通バスの運行で合意

(2005年3月16日朝刊掲載)

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