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広島大が旧陸軍兵器補給廠跡試掘調査 兵器庫の基礎や軽便鉄道跡出土

土層に火薬庫爆発痕か

 広島市南区の広島大霞キャンパスにあった旧広島陸軍兵器補給廠(しょう)。同大が今夏進めた埋蔵文化財調査で兵器庫の基礎などが相次いで出土し、軍都広島の一端を担った軍施設の姿が浮かび上がった。調査エリアでは炭混じりの土層も広範囲に確認。大正期に火薬庫が大爆発した事故の痕跡の可能性があることも分かった。(林淳一郎)

 調査エリアは、キャンパス北西端の約2千平方メートル。立体駐車場建設に伴い、同大総合博物館の藤野次史教授(考古学)らが9月初めまでの約2カ月間、試掘調査した。

 エリアの東側から正方形のコンクリート基礎が並んで出土。柱や壁の土台とみられ、幅約15メートルの大型木造建物と推定された。中央部からは第14兵器庫(幅約12メートル、長さ30メートル以上)のコンクリートの床が現れ、補給廠内を走った軽便鉄道の軌道跡も確認。西側では基礎にれんがを用いた2棟の建物跡や池も見つかった。

 藤野教授は8月、防衛省防衛研究所(東京)で1921(大正10)年と36(昭和11)年の補給廠の略図を調査。いずれの図にも大型木造建物と2棟のれんが基礎建物の記載はなく、21年よりも前の建物と判断した。第14兵器庫は21年の図に見え、36年には「第16兵器庫」に改称されていた。

 補給廠は、現在の中区基町にあった旧広島陸軍兵器支廠が06年に開設した。17棟の兵器庫が順次建設され、土塁に囲まれた火薬庫も並んだ。そばを広島駅と宇品港を結んだ宇品線が走り、武器の集積・補給を担った。

 今回の調査では、れんが基礎の建物付近を中心に炭混じりの土層が見つかった。補給廠では21年8月、火薬庫の爆発事故が起きており、藤野教授は「事故の痕跡ではないか」と指摘する。

 事故については中国新聞も当時、「紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)を吐き」などの見出しで連日報道。補給廠で働く8人の死亡や仁保村(南区)の民家全焼を伝えている。防衛研究所が所蔵する資料によると、段原町(同)の住民ら2245人が火薬庫移転を陸軍大臣に求める陳情書を提出。軍は弾薬の処理場を似島(同)に新設するなど、事故は地域と軍に大きな影響を及ぼした。

 霞キャンパスの調査は敷地内の再開発に伴い2006年から続く。10年には、れんがを積み重ねた建物基礎が出土。れんが造りだった第11兵器庫の基礎構造がつかめた。

 一方、今回出土した第14兵器庫は石敷きの上にコンクリート基礎を設けた構造と判明。木造だった可能性もあるという。1945年8月に米軍が撮影した航空写真には見えず、36年以降に取り壊されたとみられる。

 「軍施設は最先端の建築技術が投入された。軍都広島の歴史をたどる上でも航空写真などでは分かりにくい施設の構造や変遷を追えた意義は大きい」と藤野教授。成果は27日、広島大(東広島市)である広島史学研究会大会で報告する。

(2013年10月2日朝刊掲載)

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