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遺品 無言の証人

[無言の証人] 学生服と風呂敷 貧しさと勤勉さ 今に

 背中が裂け、襟元には血痕のような染みが残るカーキ色の学生服。爆心地から約900メートルの水主町(かこまち)(現広島市中区加古町)にあった広島県庁で被爆した村上弘康さん=当時(17)=があの日、着ていた。つぎはぎだらけの風呂敷は、貧しいながらも勤勉だった青年の姿を今に伝える。

 向島町(現尾道市)出身で、夜学に通いながら東京の警視庁に勤めていたが、1944年秋に帰郷した。空襲に遭う危険を案じたからだった。県立広島第三中学校へ入り、日中は県庁内政部人事課で働いた。

 45年8月6日朝は、宿直明けだった。出勤してきた同僚たちとあいさつを交わした直後、「大きな雷と地震が一度にやってきた」ような衝撃を受け、コンクリートの柱の下敷きに。やっとの思いで脱出すると、庁舎は壊滅しており、同僚の姿はなかったという。

 村上さんは、重傷を負いながらたどり着いた広島県海田町の救護所で、次々と亡くなっていく負傷者を目の当たりにする。自分の死期も悟ったのか。翌日、医師からもらった薬を風呂敷に包み、列車と船を乗り継いで実家に戻った。8月19日、ひどい脱水症状に苦しみながら息を引き取った。

 両親が形見として大切にしていた学生服と風呂敷は83年に、兄の進さんが他の遺品3点とともに原爆資料館へ寄贈した。県庁の原爆犠牲者は1141人とされ、村上さんの名も、旧庁舎跡に立つ銘碑に刻まれている。(桑島美帆)

(2022年1月31日朝刊掲載)

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