×

連載・特集

広島世界平和ミッション 第六陣の横顔 <3> 木村峰志さん(34) 広島市安佐北区口田南出身

祖父母の体験つなぐ

 「米国政府が現在やっている他国への武力行使は、不経済だからやめるべきだという理屈は説得力を持ち得ても、道徳面からの批判は通じにくい」。留学先の大学院生らとの議論を通じて得た実感である。

 二〇〇三年六月、米東部ニューハンプシャー州にあるダートマス大経営大学院に留学した。今年六月にはビジネスの修士号を取得して帰国。東京に本社のある元の会社に復帰する。

 「普通の会社員にも、日米両国の信頼関係を築くために何かができるはず」と、インターネットで見つけた平和ミッションに応募。参加が決まった他のメンバーとは、最初の訪問地サンフランシスコで合流する。

 大学院のリスク管理の授業では、米軍派遣のエリート将校たちと机を並べた。「彼らは核兵器の先制使用や保有の必要性を、国家間の力の均衡など分析に基づいて冷徹に語っていた」と言う。だが、広島育ちには個人の悲惨を無視した議論が、ふに落ちなかった。

 祖父との思い出が、根っこにあった。南区宇品で被爆した祖父は、安佐南区の親せき宅に逃れる途中、悲惨な光景に出くわしながらも、母を身ごもっていた祖母と叔母に無事再会した。

 その祖父から小学生時代、被爆体験をよく聞かされた。「負傷者が水をくれぇ言うてんじゃが、水を飲ましちゃぁいけん言うけぇ、ようあげんかった。かわいそうじゃった」

 原爆資料館に初めて連れて行ってくれたのも祖父だった。「ただ当時は恐ろしいばかり。原爆が落ちるんじゃないかと不安で、眠れない夜もあった」と振り返る。

 それでも祖父が語り続けたのは「どうしても伝えてほしかったからだと、今は思う」。そうした幼いころの体験が、大学で国際法を専攻し、戦争犯罪と安全保障を学ぶ動機になった。

 が、大学卒業当時は冷戦終結を受け、世間は「これからは経済の時代」という雰囲気だった。自らもその波に乗って企業マンの道を選んだ。そして留学準備を進めていた三年前、八十六歳で祖父が逝った。

 「世代交代を実感したし、祖父の願いを引き継ぐことの大切さを思い返した」。ミッションへの参加を最も喜んでくれたのは八十四歳になる祖母だ。参加を前に、国際電話などで祖母からも体験を聞いている。

(2005年3月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ