広島世界平和ミッション インド編 非暴力の行方 <9> 懸け橋 学生たちが和解の伝言
05年3月26日
インドとパキスタンの国旗、ピースキャンドルを握る二つの手、平和のシンボルのハト…。ミッション第五陣メンバーが画用紙を広げると、鮮やかな絵とヒンディー文字が目に飛び込んできた。
一行に託す■
「けんかはやめよう。私たちはきょうだいではありませんか」「敵対心をなくし、愛の心を育てましょう」。絵には平和を願うメッセージが添えられている。
インド中部のワルダで大学などを巡って「平和授業」をしたメンバー。平和ポスターは、インドに続いてパキスタンで活動する一行に託そうと、地元の学生たちが作り、その夜宿泊していた寺に届けてくれた。
マハトマ・ガンジー国際ヒンディー大でメンバーの「授業」を受けた学生のカナイヤ・トリパティーさん(23)。被爆者の岡田恵美子さん(68)の呼び掛けに応えて、自身が運営する人権団体の若者や学友から集めたものだ。「小さな市民の連携が大きな力になると信じているから」とトリパティーさんは言う。
「ありがとう」。市民団体代表の渡部朋子さん(51)は、笑顔で贈呈役の少女から受け取った。この日朝から寄せられた大小のポスターを重ね合わせると、ずしりと重みを感じた。
平和ポスターの仲介は思いがけず始まった。午前中に訪ねたワルダ理科大でのこと。約百五十人を前に被爆証言した岡田さんに、一人の学生が尋ねた。「こんな残酷なことをした米国は今も原爆投下を謝罪していない。それなのにどうして憎しみを乗り越えられたのですか」
岡田さんは被爆後しばらく、生き残った者の多くが恨み苦しんだ経験を話した。「でも人間は恨みの気持ちでいるとそこから抜け出せなくなる。それよりひざを交えて話をし、平和をつくっていく方が良いと、広島の人たちは気づいたのです」
一九四七年、英国の植民支配から独立したインド。だが同じ時、インドから分離独立したパキスタンとは、カシミール地方の領有権などをめぐって対立し、核を保有しての憎しみの連鎖が続く。
岡田さんは学生たちに語り掛けた。「私たちはパキスタンに行きます。インドで触れ合った市民の多くが、本当は平和を願っていることを伝えてこようと思います」
彼女の言葉に触発された学生たちが動いた。教員に頼んで大きな模造紙をもらったり、色鮮やかなサインペンを貸し借りしたりする女子学生。ちぎったノートに英語で書き始める学生もいた。
「私たち若者の手で平和を保とう」。パキスタンの若者へのメッセージだった。学生たちは交流の最後にメンバーに手渡した。
午後の「授業」では、メンバーから「メッセージを託して」と呼び掛けた。そしてその夜、多くの平和ポスターなどが届けられたのだった。
交流を提案■
感激した渡部さんに一つのアイデアが浮かんだ。「ただ渡すのではなく、インドとパキスタンの学校同士が交流を始められるような働きかけをしてはどうだろう」。両国の友好に「仲人」のように広島から貢献しようというのだ。
東広島市職員の中谷俊一さん(37)も「インドには純粋に平和を望み、努力する人も決して少なくない」と実感。「きっとパキスタンにも核に依存せず、平和共存を求める人たちがいるはず。メッセージを届けながら、両国の人々をつなぐ人間関係の構築に役立ちたい」と抱負を述べた。
◇ 国家レベルの「政治的対立」だけで語られがちな印パ関係。だが、市民同士のつながりが深まれば、平和や和解の可能性も生まれるのではないか。そんな期待を胸に、メンバーはインドを後にした。(文・森田裕美 写真・山本誉)=インド編おわり
(2005年3月26日朝刊掲載)
一行に託す■
「けんかはやめよう。私たちはきょうだいではありませんか」「敵対心をなくし、愛の心を育てましょう」。絵には平和を願うメッセージが添えられている。
インド中部のワルダで大学などを巡って「平和授業」をしたメンバー。平和ポスターは、インドに続いてパキスタンで活動する一行に託そうと、地元の学生たちが作り、その夜宿泊していた寺に届けてくれた。
マハトマ・ガンジー国際ヒンディー大でメンバーの「授業」を受けた学生のカナイヤ・トリパティーさん(23)。被爆者の岡田恵美子さん(68)の呼び掛けに応えて、自身が運営する人権団体の若者や学友から集めたものだ。「小さな市民の連携が大きな力になると信じているから」とトリパティーさんは言う。
「ありがとう」。市民団体代表の渡部朋子さん(51)は、笑顔で贈呈役の少女から受け取った。この日朝から寄せられた大小のポスターを重ね合わせると、ずしりと重みを感じた。
平和ポスターの仲介は思いがけず始まった。午前中に訪ねたワルダ理科大でのこと。約百五十人を前に被爆証言した岡田さんに、一人の学生が尋ねた。「こんな残酷なことをした米国は今も原爆投下を謝罪していない。それなのにどうして憎しみを乗り越えられたのですか」
岡田さんは被爆後しばらく、生き残った者の多くが恨み苦しんだ経験を話した。「でも人間は恨みの気持ちでいるとそこから抜け出せなくなる。それよりひざを交えて話をし、平和をつくっていく方が良いと、広島の人たちは気づいたのです」
一九四七年、英国の植民支配から独立したインド。だが同じ時、インドから分離独立したパキスタンとは、カシミール地方の領有権などをめぐって対立し、核を保有しての憎しみの連鎖が続く。
岡田さんは学生たちに語り掛けた。「私たちはパキスタンに行きます。インドで触れ合った市民の多くが、本当は平和を願っていることを伝えてこようと思います」
彼女の言葉に触発された学生たちが動いた。教員に頼んで大きな模造紙をもらったり、色鮮やかなサインペンを貸し借りしたりする女子学生。ちぎったノートに英語で書き始める学生もいた。
「私たち若者の手で平和を保とう」。パキスタンの若者へのメッセージだった。学生たちは交流の最後にメンバーに手渡した。
午後の「授業」では、メンバーから「メッセージを託して」と呼び掛けた。そしてその夜、多くの平和ポスターなどが届けられたのだった。
交流を提案■
感激した渡部さんに一つのアイデアが浮かんだ。「ただ渡すのではなく、インドとパキスタンの学校同士が交流を始められるような働きかけをしてはどうだろう」。両国の友好に「仲人」のように広島から貢献しようというのだ。
東広島市職員の中谷俊一さん(37)も「インドには純粋に平和を望み、努力する人も決して少なくない」と実感。「きっとパキスタンにも核に依存せず、平和共存を求める人たちがいるはず。メッセージを届けながら、両国の人々をつなぐ人間関係の構築に役立ちたい」と抱負を述べた。
◇ 国家レベルの「政治的対立」だけで語られがちな印パ関係。だが、市民同士のつながりが深まれば、平和や和解の可能性も生まれるのではないか。そんな期待を胸に、メンバーはインドを後にした。(文・森田裕美 写真・山本誉)=インド編おわり
(2005年3月26日朝刊掲載)