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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 松本清張没後30年 民の怨念 テーマ今に通じる 文芸評論家・元担当編集者 郷原宏さん

 推理作家松本清張が没して30年になる。生前、文壇や学界の評価は決して高くなかった作品群が今も版を重ね、映画やドラマは繰り返し流れている。担当編集者だった出雲市出身の文芸評論家郷原宏さん(79)は「清張さんが描いた民の怨念は今の時代にも通じる」と考える。両親が中国地方の生まれで、広島との縁も深い清張の原体験を踏まえ、時代が彼に何を求めたのか聞いた。(特別論説委員・佐田尾信作、写真・浜岡学)

  ―読売新聞で清張担当編集者でした。どんな思い出が。
 11人の推理作家の自選短編集を担当した時、書き下ろし原稿を依頼しても一人だけ出してこない。約束して伺うと「何しに来た」ですよ。口述筆記で何とかしましたが。事件記者の私は使い勝手がいいのか、その後は夜中に電話で古い事件の資料を「すぐ持ってこい」です。

  ―それもむちゃですね。
 タクシーを飛ばして会社で探し、コピーを届けても「遅い」ですからね。もっとも清張さんが日本古代史にのめり込んだ時期でもあり、その分野の対談などを世に出すことはできた。一方で小説連載には飽きて打ち切ってしまい、こちらの担当編集者は頭を抱えたようです。

  ―清張は「砂の器」(1961年)「数の風景」(87年)など中国地方を舞台にした小説を少なからず残しています。
 そこに幻のふるさとがあったんでしょう。両親とも中国地方の農村の出身で、籍を入れず夫婦になって広島市内で清張さんが生まれます。父親は口が達者で背伸びしたがるフーテンの寅(とら)のような男だが、貧しかった。清張さんも学歴はなく、それが生きるエネルギーになる。古書店で立ち読みして勉強するしかない境遇にあったのです。

  ―それでも見習い印刷工から身を起こしますが、34歳という年齢で軍に召集されます。
 意外や、兵営の生活にも生きがいを見つけました。貧富の差や地位に関係なく、新兵は平等なんだと気付くのです。知識人の作家とはひと味違って民草の意識を描くことができたのは、その経験ゆえでしょうか。

 「官」を毛嫌いする人でもありました。自分を狙って赤紙を出した役所の兵事係長に復讐(ふくしゅう)する小説「遠い接近」(72年)をご存じですか。復讐の話は別として軍事教練嫌いの主人公は清張さんそっくり。人の運命を一役人が左右してしまう不条理を憤っていたとも思えます。

  ―小説「点と線」(58年)などで一躍、人気作家になりますね。読み手は誰でしたか。
 高度成長期を迎え、東京や大阪では電車で通うサラリーマン層が膨らみます。従来の小説の読者ではない彼らは通勤で読める新しいタイプの小説を求め、面白くて情報量のある清張作品を受け入れた。相次いで創刊した週刊誌が競って清張さんに連載を頼み込み、光文社カッパ・ノベルスのような新書も清張ブームに乗ります。光文社はこれでビルを建てたそうです。

  ―新聞や週刊誌の現状を思うと、隔世の感があります。
 ですが清張さんの描いた民草のルサンチマン(怨念)は今の時代にも通じませんか。汚職事件とノンキャリアの死を描いた小説「ある小官僚の抹殺」(58年)は財務省から自殺者まで出した森友学園問題を想起しますよ。記者だった私も、人の死でうやむやにされた事件を数多く知っています。亡き財務省職員の奥さんが「ふざけんなと思います」と国の訴訟打ち切りを批判しましたが、同感です。

  ―社会批判が全生涯の行き着く先だったのでしょうか。
 いや、文学は面白いのが第一―が信条でした。朝鮮戦争さなかの小倉(北九州市)で黒人米兵が集団脱走した事件を小説にした「黒地の絵」(58年)を例えにしましょう。前線に送られる兵たちは悲しいけれど、彼らに妻を陵辱された男の復讐に清張さんは読者を引き付けます。ただし、この小説がノンフィクション「日本の黒い霧」(60~61年)の下敷きになったと思うと、戦後の占領下の闇を探ろうとした執念も伝わります。

■取材を終えて

 理解されることなく愛されてきたまれな作家―とは郷原さんの持論。「松本清張事典決定版」を10年がかりで編んだのは「木を見て森を見ない」清張論に自身が飽き足らなかったからだ。殺意さえ頭をよぎったと冗談半分に思い出す、作家のむちゃも今は懐かしい。郷原さんもファンを自認する一人である。

ごうはら・ひろし
 出雲市生まれ。早稲田大卒。読売新聞社会部、週刊読売などを経て85年フリー。詩集「カナンまで」でH氏賞、評論「詩人の妻―高村智恵子ノート」でサントリー学芸賞、「松本清張事典決定版」で日本推理作家協会賞(評論部門)。「清張とその時代」「乱歩と清張」などの著書もある。読売時代は中東で日本赤軍の行方を追うなど、重大事件の取材に携わる。東京都武蔵野市在住。

松本清張(1909~92年)
 高小卒業後、印刷工などを経て朝日新聞西部本社で図案の仕事に従事。43年教育召集、44年臨時召集、陸軍衛生兵として朝鮮半島で敗戦。51年雑誌の懸賞小説「西郷札」で直木賞候補。53年「或(あ)る『小倉日記』伝」で芥川賞。56年から文筆業に専念。58年時刻表をトリックに使った「点と線」などがベストセラー入りし、社会派推理小説の第一人者に。「日本の黒い霧」「小説帝銀事件」などで昭和史の暗部に切り込んだ。邪馬台国論争に一石を投じた「古代史疑」などで独自の古代史論を展開。67年吉川英治文学賞、70年菊池寛賞。日本推理作家協会初代会長。亡くなった年も連載を抱えていた。98年北九州市松本清張記念館が開館。

松本清張と中国地方
 父親松本峯太郎が現在の鳥取県日南町、母親岡田タニが東広島市の生まれ。清張は父母が知り合った広島市で生まれ、移り住んだ福岡県板櫃村(現北九州市)で出生届が出されたことが、幼少期の写真などから没後に判明している。自伝的小説「父系の指」では「広島のK町」と自らの出生地をほのめかし、自伝「半生の記」では猿猴橋や八丁堀などの地名を挙げ、終戦後の副業として小倉から広島へ、ほうきを出張販売した思い出を明かしている。小説では出雲弁が推理の鍵になり島根県奥出雲町が舞台の一つになった「砂の器」、石見銀山遺跡(大田市)が主な舞台になった「数の風景」などが中国地方に題材を得た。

(2022年2月2日朝刊掲載)

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