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連載・特集

広島世界平和ミッション パキスタン編 核の現状と展望 

保有は「国家の誇り」

 広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第五陣一行が、インドに続いて訪ねたパキスタンは、軍部が政権を握る核保有国である。インドと同じく核拡散防止条約(NPT)には加盟せず、一九七〇年のNPT発効後にひそかに核開発を本格化。九八年にインドを追いかけるように実施した地下核実験は、敵対する隣国への挑戦であると同時に、NPTの差別性と矛盾を突きつけた。最近ではパキスタンの「核開発の父」、アブドゥル・カーン博士が「核の闇市場」を構築し、北朝鮮やリビア、イランに核技術を提供していた事実も明るみに出た。メンバーと学んだパキスタンの核の現状と展望を報告する。(文・森田裕美 写真・山本誉)

開発

インドへの抑止力

 パキスタンの大都市を車で移動すると、突然大きな山のモニュメントに遭遇する。一九九八年五月二十八、三十の両日、パキスタンが地下核実験を強行した現場「チャガイ丘陵」の模型だ。首都イスラマバード郊外や、ペシャワル、ラホールなど各州都に、誇らしげに設置されていた。

 実験の翌年に除幕された。そばに立つと、人の背丈の三倍以上はありそうだ。土台の石版には、「パキスタンの核実験成功を記念して設置する」と刻まれていた。パキスタンにとって核保有は「国家の誇り」なのだ。

 パキスタンは、五六年に原子力委員会を設置。平和利用を目的に、米国がイスラマバード郊外の原子力科学技術研究所に実験炉を提供し、六五年に運転を開始した。

 核兵器開発は、カシミール地方の領有権などをめぐってこれまでに三度戦争を繰り返し、今も厳しく対立する「宿敵」インドに向けられる。パキスタンの二倍以上の兵力を有し、通常兵力で勝るインドに対して優位性を確保するには、核兵器を保有し、先制使用も辞さない核抑止力に依存する以外に道はないと考えられているからだ。

 開発が具体化したのは七〇年代。折しも、オランダで濃縮ウラン製造技術を学んだ冶金(やきん)学者のカーン博士が帰国。産業が発達しておらず、足りない部品はドイツなど主に欧州の企業などから買いそろえた。

 そして首都に近いカフタにウラン濃縮施設を完成。原爆製造に必要なウラン235の取り出しに成功し、原爆製造計画が本格的に始まった。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)などは、核弾頭三十―五十個を保有しているとみている。

援助

大国の思惑が働く

 パキスタンは、独立以来、歴史の半分を軍政下で過ごしている。二〇〇二年に総選挙を実施し、形式的に民政移管したが、実権は一九九九年に軍事クーデターによって就任した陸軍参謀長兼務のペルベーズ・ムシャラフ大統領が握っている。

 パキスタンが、国際社会の監視の目を逃れ、核開発を進めることができた背景には、米国や中国の存在がある。

 七九年、旧ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米国は反共勢力を支援する拠点として、パキスタンに年間五億ドルの経済援助を実施。核開発にも、事実上目をつぶった。

 しかし、八八年四月にソ連がアフガンからの撤退に合意すると、米国にとってパキスタンの戦略的価値は下がり、今度は核兵器開発の中止と民主化を求めるようになった。

 米国からの経済援助が途絶えたパキスタンは、中国の援助を受けながら開発を続けた。この時期に核弾頭を搭載するためのミサイル開発も進めたとされる。

 パキスタンが再び米国の「友好国」の地位を獲得したのは、〇一年の米中枢同時テロ後である。タリバン政権を支援し、米国との距離を広げていたムシャラフ大統領は、米国がアフガニスタンへの空爆を開始すると、「対テロ戦争」支援を表明。米国は、核実験を理由に加えた経済制裁を解除した。

 カイデ・アザム大学院大教授で物理学者のペルベーズ・フッドボーイさん(55)は、核軍拡競争を続ける印パ両国に警鐘を鳴らすドキュメンタリー映画を、〇一年に制作した。

 イスラマバードのホテルで作品を観賞したメンバーにフッドボーイさんは、核開発など国の歳出の半分以上が軍事関連に費やされている現状を指摘。「パキスタンの三人に一人は貧困に苦しんでいる。経済制裁解除が必ずしも国民の生活向上につながっていない」と実情を話した。

闇市場

財政危機が背景に

 一行はイスラマバードで、元カイデ・アザム大学院大教授(物理学)のアブドゥル・ナイヤーさん(60)から、カーン博士が築いた国際的な「核の闇市場」などについて話を聞いた。

 ナイヤーさんは、パキスタン政府が示した「カーン博士の個人的な犯行」との見解に対し、「パキスタンという国家において、個人が私腹を肥やすために軍事機密を漏らすのは不可能。政府は分かってやったと思う」と説明。

 核実験によって国際社会から経済制裁を受け、経済状態が悪くなった政府が「他国に核技術を売ることで財政確保を目指したのではないか」とみる。

 「核技術や核物質が拡散すれば、国家だけでなく、テロリストなどの手に核兵器が渡り、使用される可能性も考えられる」。ヒロシマ・ナガサキの新たな出現を懸念するメンバーに、ナイヤーさんはうなずいて言った。

 「非国家であっても強い意志と技術、部品、必要な核物質があれば製造は可能だ。科学者の中にはイスラム原理主義に強く共鳴している者もいて、必要な資材を渡さないとも限らない」

 さらに、南アジアで核戦争が十分に起こり得る可能性を強調する。

 ナイヤーさんは、核実験後に開いた反対集会で、会場に乗り込んできたイスラム原理主義者に殴られた経験がある。当時はイスラム主義政党支持者をはじめ、圧倒的市民が実験を支持した。

 あれから七年。市民の間に核保有への反対意見は「増えている」と言う。しかしこの間、印パ両国はカシミール紛争を契機に何度か大隊が国境近くに終結するなど、一歩間違えば核戦争に至りかねない状況を迎えた。

 「相互の憎しみは今なお強い。核開発はさらなる貧困を生み、強硬派や原理主義者の台頭を強めている」。ナイヤーさんの言葉には危機感がにじんでいた。

戦略研究所・東アジア担当所長

ファザル・ラーマンさん(46)に聞く

使わぬ関係築きたい カシミールの解決が不可欠

 政府系研究機関「戦略研究所」の東アジア担当所長で、アジア太平洋地域の安全保障に詳しいファザル・ラーマンさん(46)に、パキスタンの核政策について聞いた。

  ―パキスタンが核兵器開発に乗り出すようになったのはなぜですか。
 パキスタンは、常にインドという脅威から自国をどう守るかを考え続けてきた。一九六五年の第二次印パ戦争敗北後、インドとの戦略バランスを保つため、どれだけの犠牲を払っても核開発をすると決めた。

 七四年にインドが初の核実験に成功した時、パキスタンは南アジアの非核地帯化をインドに提案したが、相手にされなかった。本格的な開発に乗り出したのは、そのころからだ。七八―八八年には、すでに保有能力を持ったが、公には示さなかった。

  ―しかし九八年に核実験に踏み切り、国際社会にアピールしました。
 その前にインドが実験したが、そのことを非難する国際社会の反応は鈍かった。残念ながら米国も日本も、パキスタンを脅威から守る手段を提供してくれるわけではない。しかもインドに抗議するより先に、パキスタンに「実験をしないように」との圧力をかけてきた。パキスタンには、信頼できる安全保障がなくなり、実験することで核保有国であることを宣言した。

  ―パキスタン政府の核拡散防止条約への考え方は?
 NPTは米ロ英仏中の五カ国にのみ保有を認める差別的な条約だ。核兵器の拡散を防止するという条約の精神には賛成できるが、署名をするなら、インドも共にすべきだ。南アジアの戦略バランスを考えたら、パキスタンだけ加わるわけにはいかない。

  ―核兵器が本当に平和を保ち、戦争防止に役立ちますか。
 核兵器を持っていればそれで攻撃されないということではない。核抑止力には限界がある。圧倒的な軍事力を誇る核超大国の米国でさえ、テロリストに攻撃された。しかし、非核国の日本でも北朝鮮を脅威に感じ、核武装論を唱える声があるのを知っている。

  ―南アジアから、核兵器廃絶を進めることはできませんか。
 一つの可能性としてはあるが、南アジア最大の国インドがその気にならないと無理だ。南アジアにとって、印パの核保有は不幸なことだ。持たないに越したことはない。が、今からなくすのは非常に難しい。

 これからできることは、核兵器を保有しながら信頼を醸成し、使わない関係をつくっていくことだ。そのためにはカシミール問題の解決が不可欠だ。国際社会はこの問題でもっとインドに圧力をかけてほしい。

  ―地域や世界の平和・軍縮に向けて、パキスタンが主導できませんか。
 世界平和をつくりだすには国際的な安全保障が必要だ。それなしにパキスタンがイニシアチブを取ることはできない。国際的な核軍縮は現在、進んでいない。むしろ米国が小型核兵器の開発に取り組むなど、新しい脅威を増やしている。国際社会は包括的で、しかも平等な関係において核軍縮を進めることが大切だ。

 《戦略研究所》73年、外務省のシンクタンクとして設立。平和、開発、安全保障などの分野を研究している。

パキスタンの核開発年表

1947年 8月 英国植民地下のインドから分離独立
     10月 ジャム・カシミール地方の領有権をめぐり、第
         一次印パ戦争起こる。49年1月に停戦
  56年 3月 第一次憲法が採択され、共和国に▽原子力委員
         会を設置
  58年10月 クーデターでアユブ・カーン軍事政権が成立
  60年    米国がイスラマバード郊外の原子力科学技術研
         究所に実験炉を建設。65年に運転開始
  65年 9月 第二次印パ戦争起こる。▽パキスタン人民党
         (PPP)のアリ・ブット党首(のちの大統
         領)が「インドが核爆弾を製造したら、われわれは草や葉を食べてでも核爆弾を持つしかない」と発言
  69年 3月 シャヒア・カーン軍事政権が成立
  70年 3月 核拡散防止条約(NPT)が発効
  71年12月 第三次印パ戦争起こる。東パキスタンがバング
         ラデシュとして独立
  72年 7月 印パ両国が71年12月時点の停戦ラインを実
         効支配線として合意(シムラ合意)。現在の暫
         定国境
     12月 カラチのカラチ原発が運転開始
  74年 5月 インドが「平和目的」として初の地下核実験を実施▽パキスタンがインドに「南アジア非核地帯」の設置を提案
  76年 7月 パキスタンの「原爆の父」カーン博士が首相直属の核開発プロジェクト最高責任者に就任。ウラン濃縮による原爆製造計画が本格的にスタート
  77年 7月 ジアウル・ハク陸軍参謀長がクーデターで政権奪取。79年4月にブット前首相を処刑
  79年12月 旧ソ連がアフガニスタンに侵攻▽シハラのウラン濃縮実験施設が運転開始
  84年    カフタのウラン濃縮施設が運転開始
  85年12月 8年半に及んだ戒厳令が解除
  88年11月 ブット元首相の娘ベナジル・ブットが率いるPPPが民政復帰選挙で勝利し、イスラム圏で初の女性首相誕生
  89年    旧ソ連がアフガニスタンから撤退
  90年11月 総選挙でイスラム民主同盟が圧勝し、ナワズ・シャリフが首相に就任
  93年10月 第二次ブット政権誕生
  97年 2月 シャリフ政権が復活
  98年 5月 インドに続き、初の核実験を実施。全土に非常事態宣言
  99年 2月 インドとの紛争予防に向け、信頼醸成などを盛り込んだ両国首脳による「ラホール宣言」を発表
      7月 実効支配線を越えたパキスタン軍とみられる武装勢力にインド軍が掃討作戦を展開(カルギル紛争)
     10月 ペルベーズ・ムシャラフ陸軍参謀長のクーデターでシャリフ政権が崩壊
2001年 6月 ムシャラフ氏、暫定憲法を公布し自ら大統領に就任       9月 米中枢同時テロ発生
     12月 イスラム過激派がインド国会を襲撃。カシミールの緊張高まる。ムシャラフ大統領が「最後の手段としては原爆もあり得る」と発言
  02年 5月 カシミールの実効支配線を挟み戦闘激化
  04年 1月 印パが民間旅客機の相互乗り入れ開始
     11月 インドがカシミール駐留の一部の兵力撤退を開始
  05年 4月 ジャム・カシミール地方の実効支配線を越えて、インド管理のスリナガル市とパキスタン管理のムザファラバード市を結ぶバス路線が7日に開通

(2005年4月11日朝刊掲載)

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