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連載・特集

『生きて』 ミカサ前社長 佐伯武俊さん(1939年~) <13> 本社移転

「継ぎはぎ工場」に終止符

 ≪2014年、ミカサ創業地の広島市西区楠木町から安佐北区安佐町久地に本社を移した≫

 本社の移転は入社以来の悲願だったんだ。自分の中で一番大きな問題が解決したという気分。新工場で造った船の部品の推進軸を積んだトレーラーがスムーズに出て行ったときは、涙が出た。

 南極観測を支援する海上自衛隊の砕氷艦しらせ(1万2650トン)などの大型船は、推進軸の長さが20メートルを超える。楠木町の工場前は道路が狭くて何度も切り返さないとトラックを出せなかったんだから。

 ≪1966年に入社したときの職場環境は厳しかった≫

 工場を初めて見学したとき、ボールの原料のゴムがくっつかないようにするための粉がそこら中にたまっていて真っ白だった。こりゃひどい、どうなっているんだろうと。健康どうこうと言う時代ではなかった。きつい、危険、汚いの「3K」職場だった。

 終戦後にバラックで建てた工場は柱が多く、集じん機もない。盆正月には「すみません」と言って近所の家を回った。増産のために設備を増やしたいが面積が足りない。操業を止めるわけにもいかないし。みんなが慰安旅行に行っている間、現場監督として残って作業をしていたんだ。

 近所の鉄工所に頼んで建て増しに次ぐ建て増しを重ねた。生産能力の増強が最優先だった。継ぎはぎだらけの工場は昭和40年代半ば、ついに広島市の指導を受けてしまう。必要な書類を整えずに増築していたんだ。その後、隣接する製紙会社の土地が手に入り、ひとまず拡張はできた。それでも余裕があるとは言えず、3Kの解決は道半ば。工場地帯だった周辺に住宅が増えて、移転は喫緊の課題だった。

 民家に迷惑が掛からず、働きやすい広い敷地―。大竹や三次などいくつも候補があった。廿日市の工業団地は好立地で図面も引いていたが、トレーラーが曲がりきれない道路があってやめた。最終的には建設会社の資材置き場だった今の場所が見つかり決めたんだ。みんなが広々と働けて道路も広い。工場は生産の基本。ミカサの歴史でも大問題の一つやったからね。

(2022年2月3日朝刊掲載)

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