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連載・特集

広島世界平和ミッション パキスタン編 希望の灯 <3> アフガンからの訪問者 禎子の絵本 普及へ尽力

 カラチに続いてミッション第五陣一行が訪れた北西辺境州の州都ペシャワルは、冷たい雨にぬれていた。土壁の建造物が並び、褐色の世界が広がる。

 到着したその日夕。市民団体代表の渡部朋子さん(51)が「サイフィさん!」と思わず歓声を上げた。旧知のアフガニスタンのテレビディレクター、ヌールラ・サイフィさん(44)がロビーに現れたのだ。

 サイフィさんは二〇〇三年、義肢装具士を目指す日本人女性と地雷で片足を失ったアフガンの少女の交流を描いた日本映画の制作にかかわったのが縁で、初めて被爆地を訪ねた。その時、平和記念公園などを案内したのが渡部さんだった。

車で8時間■

 一行のペシャワル訪問を知り、二百キロ以上離れた首都カブールから車で八時間かけ、会いに来てくれたのだ。

 サイフィさんは元アフガン国営テレビのディレクター。タリバン政権下ではテレビ放送などが禁じられたため、パキスタンの友人の所に身を寄せ、国外メディアの仕事をした。今はフリーで活動している。

 レストランで卓を囲んだメンバーに、渡部さんは二年前のサイフィさんとの出会いを話した。

 広島市中区の平和記念公園。通訳の女性が十二歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんと、その後同級生たちが彼女や原爆で犠牲になったすべての子どもたちのために、原爆の子の像を建てたエピソードをまとめた絵本をサイフィさんに紹介した。すると彼は「アフガンの子どもは禎子と同じ」と涙したという。

 「この本をぜひアフガンの子どもたちに広めたい」。帰国後、サイフィさんは渡部さんに協力を求めてきた。彼女は出版社に掛け合うなどしたが著作権の問題があり、同じ本のアフガン版の発行は難しいと分かった。

 しかし「買った本の加工ならいい」との承諾を得た渡部さんは、大量に絵本を購入。現地のダリ語用に見開きを逆にして金属リングで閉じ、翻訳文を張り付けた。サイフィさんが遠くから来たのは、何か良い知恵はないか、一行も交えて話をしたかったからだ。

復興を願う■

 「禎子の物語と出合った時、人知れず戦いの犠牲で亡くなった多くのアフガンの子どもの姿と重なった」とサイフィさんは振り返る。

 メンバーが広島の印象を尋ねると、「戦争の中に長く身を置いていた私たちは、平和の実感を忘れている。復興した広島に立って、平和を実感した。母国もいつかこうなればと願った。広島は希望と平和の象徴です」と答えた。

 渡部さんの試作品を手にするサイフィさんに、メンバーはアフガンの近況を聞いた。「状況は少しずつだが良くなっている」と言う。だが、戦争の傷はなお深い。「難民が帰って来ても、住む家がなく、先週も三十六人が凍死した」と、サイフィさんは声を落とした。

 戦争に傷つき、未来への希望がなかなか見いだせない現実。だからこそ彼は、この絵本をアフガンの子どもたちに紹介したいと願う。

 「禎子はアフガンの子どもが平和を考えるゲートになると思う。学校や図書館、非政府組織の手を借りながら、子どもたちに希望と平和を望む気持ちを伝えたい」。サイフィさんの思いは強い。

 かつて映画会社に勤めていた東広島市職員の中谷俊一さん(37)は、禎子をテーマに描いた映画などについて紹介。「広島が培ってきた平和教育の内容を伝えることで、私たちも貢献できるかもしれない」と話した。

 渡部さんは帰国後、読みやすくするために試作品を手直しした。将来は現地で印刷するなどの方策を模索している。

(2005年4月13日朝刊掲載)

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