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連載・特集

広島世界平和ミッション 第六陣の横顔 村上啓子さん(68) 広島市中区白島九軒町出身

市民に訴え反核の波

 広島国際文化財団が派遣する「広島世界平和ミッション」第六陣メンバーとして新たに加わり、十四日、米国に出発した被爆者の村上啓子さんの横顔を紹介する。

 暴力がまん延する世界。「反核・平和の声を上げ続けるのをやめるわけにはいかない。自ら出かけ、戦いの連鎖を断ち切ろうと訴えたい」。昨年、自身にそう誓った。平和ミッションに関する記事を、広島の友人が送ってくれた矢先だった。

 八歳の時、爆心地から一・七キロの自宅で被爆。市職員だった父に「日本の飛行機の音ではない。危ないから防空壕(ごう)に入りなさい」と言われた。おかげで無傷だった。が、父は左肩に大けがを負い、母は右目を失った。

 つらい体験は「わざわざ話すことでもない」と胸にしまった。短大卒業後、「被爆者のために働こう」と、現在の広島赤十字・原爆病院(中区)に就職。医師の診療を受ける前の被爆者から当時の状況などを聞き取るのが仕事だった。「でもつらすぎてすぐやめちゃった…」。その後は、西区や安佐南区で美容院を経営しながら暮らした。

 一九八一年、葛藤(かっとう)の中で初めて体験を文章にし、広島市民文芸作品に応募。エッセー部門の第一席に選ばれた。同じ年に母親を亡くした。

 九四年には父も逝(い)った。そのころ、縁あってドイツ人牧師を案内して原爆資料館などを回った。彼はぽつりぽつりと、第二次世界大戦中の体験を話した。仲良しだった友人がある日、急に消えた。大人になって友人がユダヤ人だったと分かり、胸を痛めたという。

 ユダヤ人大虐殺の時代を生きた人の生の体験に触れ、「歴史の証人でないと語れないものがある」と実感した。「被爆者と出会い、核兵器廃絶について考えてもらえるきっかけになるのなら、私も語りたい」と証言活動を始めた。

 その後は国内はもとより、ミャンマー、スウェーデン、ドイツなどに出かけた。米中枢同時テロの翌年には、米国への広島・長崎市民使節団に加わり、ニューヨーク市の世界貿易センターの倒壊現場にも立った。

 二〇〇二年秋、長女が暮らす茨城県に移り住んだ。急な大役も「いい機会になる」と積極的だ。自国は核兵器を保有しながら、他国を責める核超大国の姿勢を正したい、と思う。「政府がだめなら市民に働きかけて、ウエーブを起こしたい」

(2005年4月16日朝刊掲載)

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