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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山田精三さん―きのこ雲「強烈な朱色」

山田精三(やまだ・せいそう)さん(93)=広島県府中町

資料館の展示写真 100年後の人たちへ

 生い茂(しげ)る木々の背後に立ち上るきのこ雲を捉(とら)えたモノクロ写真が、原爆資料館に展示されています。当時17歳だった山田精三さん(93)が撮影(さつえい)しました。「大きな太陽が上がってくるような強烈(きょうれつ)な朱色の雲」を記憶しています。

 「広島三中」と呼ばれていた県立広島第一中学校(現国泰寺高)夜間部の3年生でした。昼間は、広島市上流川町(現中区)にあった中国新聞社でアルバイト勤務。県庁や市役所の記者クラブを回って原稿(げんこう)を集め、本社に届ける仕事をした後、夕方5時ごろから学校へ通っていました。

 あの日は月曜でしたが、仕事を休み、幼なじみと近所の水分峡(みくまりきょう)へ出かけました。飯ごうでご飯を炊いて、食べるつもりでした。水分峡の入り口にさしかかったころ、「目の前でフラッシュをたかれたような」光が突然広がり、ドカーンと地響(じひび)きがしました。

 松林が大きく揺(ゆ)れ、巨大な雲がぐんぐん上がっていきます。「なんじゃ、あれは。きれいじゃのう」。とっさに、持参していたじゃばら式の国産カメラのレンズを向け、何回かシャッターを切りました。

 午後2時ごろでしょうか。そのまま水分峡に留まり、炊いたご飯を食べていると、友人のお母さんが「おおごとじゃ」と迎えに来ました。麓(ふもと)にある府中国民学校(現府中小)の方へ戻ると、全身大やけどを負い、両手の先から皮膚(ひふ)をぶら下げた人が続々押し寄せてきます。

 矢賀駅まで出て、歩いて市中心部を目指すことにしました。しかし、広島駅の手前の荒神町(現南区)辺りから先は、熱に行く手を阻まれ進めません。既に熱線による火災が広がっていたのです。

 数日後、雑魚場(ざこば)町(現中区国泰寺町)の学校へ行くと、校舎は壊滅(かいめつ)し、子どもたちの遺体が散乱していました。「人間をあぶり殺したようなもんじゃ。ひどいことをしよるのう」と怒りがこみ上げてきました。

 爆心地から約900メートルの中国新聞社屋も全焼し、社員114人が亡くなったほか、原爆の後遺症で「外見はけがをしとらんのじゃけど、死んだ人もようけおった」と振り返ります。

 爆心地から約6キロ地点で山田さんが撮ったきのこ雲は、原爆のさく裂(れつ)から約2分後とみられています。地上から撮影した広島原爆のきのこ雲の写真で、最も早い記録とされています。

 しかし終戦後の報道現場は混乱を極め、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲もあったため、この写真が世に出たのは1946年7月6日発行の「夕刊ひろしま」が初めてでした。被爆直後の市内を撮影した中国新聞カメラマンの松重美人さん(2005年に92歳で死去)に現像してもらい「世紀の記録写真」「原子爆弾炸裂(さくれつ)の直後、茸型(きのこがた)に開いたところ」と紹介されました。

 46年春に広島三中を卒業した山田さんは、中国新聞社の記者として経験を積みました。75年10月には、5万人の観衆で埋(う)め尽くされた東京の後楽園で、広島東洋カープの初優勝を取材。「焼け野原の街で生まれ、何度もつぶれると言われよったこまい球団が優勝した。ファンも一生懸命じゃった」―。あの熱気が脳裏に焼き付いています。

 先月初めて原爆資料館を訪れた山田さん。大きく引き伸ばされた「世紀の記録写真」を見上げながら語りました。「原子雲の下におる人はだいたい死んどる。100年後に写真を見た人が、これが広島に落ちた原爆じゃということを知ってほしい」 (桑島美帆)

動画はこちら

私たち10代の感想

「まるで太陽」威力痛感

 「きのこ雲は、まるで太陽が下から昇ってきたような見たことがない光景だった」という山田さんの言葉を聞き、原爆の威力(いりょく)を痛感しました。山田さんの驚きや恐怖(きょうふ)を想像しようとしましたが、簡単にはできません。証言や、きのこ雲の写真を通して学び、感じた原爆の恐(おそ)ろしさを積極的に発信していきたいです。(高1三木あおい)

「知ること」 伝える一歩

 今回の取材で、白黒の写真を見て灰色だと思っていたきのこ雲が本当は赤かったことを知りました。先入観の危うさを感じると同時に、山田さんが何度も繰り返していた「知ることが大切」「原爆の恐ろしさを知っていたら使わない」という言葉が心に残りました。ヒロシマの史実を伝えていく責任を感じました。(中2小林由縁)

平和な世界へ貢献したい

 山田さんは「指導者が人道的でない場合が一番怖い。核保有国は核兵器を持つことが得だと考えているのかもしれないが、人を傷つけていいわけがない」と強調しました。お互いを信用し認め合えば、平和な世界が創造できると思います。暴力ではなく言葉で解決できる社会になるよう、国際交流を深め、自分たちが今からできることを考えていきたいです。(中2谷村咲蕾)

(2022年2月7日朝刊掲載)

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