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連載・特集

広島世界平和ミッション 米国編 第1部 アフター9・11 <3> 崩壊現場 被害の実像 胸にずしり

 ニューヨークの世界貿易センタービル跡に隣接する建物の二十階に「ファミリー・ルーム」と呼ばれる一室がある。米中枢同時テロの犠牲となった遺族たちが、亡き肉親を静かにしのぶための遺族室である。

 遺族会の一つ「ピースフル・トゥモローズ」の一員で高校教諭のブルース・ウォレスさん(63)の案内で部屋に向かった。が、報道陣の立ち入りは禁止。入室が認められたのはミッション第六陣メンバー四人だけである。

 待つこと約三十分。部屋から出てきたメンバーはみな無口だった。いつもは快活な米ダートマス大経営大学院に留学中の会社員木村峰志さん(34)の目は赤かった。

壁覆う手紙■

 数時間後に木村さんから聞いた話はこうだ。部屋中の壁は、犠牲者の写真や家族からの手紙などで埋め尽くされていた。片隅に積み木などが置いてあるスペースも。訪ねた折も、父を失った幼い姉弟が無邪気に遊びながら母を待っていたという。

 木村さんは、邦人銀行マンの写真を見つけた。傍らに幼い二人の娘からの手紙が添えられていた。ニューヨークのホテルに備え付けの便せん。「現場を訪れた際の宿泊先で書いたのだろう」と木村さんは思いやる。

 父の似顔絵に覚え立ての字が添えてあった。「ママもがんばっています。パパもはやくかえってきてね」。木村さんはここまで話すと、またポロポロと涙をこぼした。

 実は木村さんも同僚を失った。テロ当時、東京本社のテレビで、二機目の旅客機がビルに突っ込むのを見た。その直後、ビル内の支社から異変を告げる電話があったが、途中でぷっつり切れた。彼は同僚と一晩中、国際電話をかけ続け、情報収集に努めた。

 「その後、三回の出張のたびに現場にやって来たけど、今回、初めてテロが自分のことのように思えた」。木村さんはこの冬、父になる。同年代の犠牲者の身の上に、自らを重ねたとき、テロの実像が心に迫ってきた。

 「自分の国の罪もない人たちが殺される悲しくて苦しい経験をしたのに、アメリカ人は報復としてなぜイラクで市民を殺すんでしょうか。おかしいよ」。津田塾大三年の前岡愛さん(20)は熱い口調で言った。

 メンバーは「ファミリー・ルーム訪問が、今回の旅で最も印象深い経験」と口をそろえる。まるで海外の人々が広島を訪れ、原爆の犠牲者ら一人一人の悲惨に触れたときに覚える衝撃と似ていた。「市民を無差別に襲った暴力の犠牲」という点で、広島との共通性も感じた。

 だが、被爆者の村上啓子さん(68)の感想は、少し異なっていた。「やはり広島と9・11は違う」

連鎖を断つ■

 なぜなら原爆は半世紀以上も放射線の影響で被爆者を苦しめ続けている。母は被爆後三十六年間寝たきりで、妹も後遺症で苦しめられた。巨大な破壊力を持つ原爆の恐ろしさ、非人道性を強調したい気持ちは痛いほど分かる。ただ、村上さんの経験を知らない者にとっては、ときに「広島を特別視している」と映ってしまう。

 「ウォレスさんが不愉快に受け取らないか…」。そんな心配をしながら会話の行方を見守ると、彼は笑顔で村上さんに言った。「テロ後、私たちのグループが学んだのは、被害の悲惨さを他の被害を受けた地と比べないことです」

 世界にはさまざまな暴力の犠牲者がいる。手を結ぶために、ウォレスさんたちはこの言葉をいつも贈るという。「あなたは一人じゃない」と。

 崩壊現場を訪ねた後、ピースフル・トゥモローズの他のメンバーとも会った。テロ犠牲者がうらみの連鎖を断ち切り、こうした境地にたどり着くまでの道のりに初めて触れた。

(2005年6月1日朝刊掲載)

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