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広島世界平和ミッション 米国編 第1部 アフター9・11 <5> 見えない傷 今も残る恐怖心と疑問

 世界貿易センターが立っていたマンハッタンの東を流れるイースト・リバー。その対岸にブルックリン・フレンズ校はある。幼稚園から高校までの私立校。児童・生徒約六百人のうち高校生は約百六十人だ。

 平和授業は高校の「委員会活動の時間」を利用して行われた。ミッション第六陣メンバーの村上啓子さん(68)が被爆体験を証言。ミッションの応援にカリフォルニア州ロングビーチから駆けつけた在米被爆者の笹森恵子さん(72)=広島市中区出身=が継いだ。

 笹森さんは、熱線による傷あとの整形手術をニューヨークの病院で受けた「原爆乙女」の一人である。「私は十三歳の時、原爆で全身を焼かれ手が変形しました」。生徒たちがいすに座り直す。「自国の過ちを責められるの?」。そんな緊張が伝わってくる。

 笹森さんは続けた。「あなたたちに、私のような経験をさせたくない」。こわばった生徒の顔が、不意を突かれた驚きに変わった。「みんなの顔はとても美しい。たくさんの可能性を持った顔つきです。そんなあなたたちに、よりよい世界を築くため自分に何ができるかを考えてほしい」

 許しと和解、希望が込められたメッセージに、大きな拍手が起きた。

折り鶴交流■

 同校の生徒八人は今年二月、広島を訪れ被爆の実態を学んだ。その時交流した山陽女学園中・高等部(廿日市市)や幟町中(広島市中区)の生徒、広島YMCA(同区)国際交流サークルの子どもたちがミッションの渡米を知って折り鶴を作成。交流の橋渡し役を務めた市民団体「ガイア21」(藤岡栄治代表)を通じて折り鶴を託された一行は、授業の最後に生徒代表へそれを贈った。

 授業後、広島を訪れた生徒の一人ジュリアン・ビーバーさん(17)は「母国の原爆が引き起こした被害を知って、罪深さに落ち込んだ。今日は再び原爆資料館を訪れた感じだった」と話した。

 ビーバーさんは広島から帰国後、核兵器や米中枢同時テロ、暴力について深く考えるようになった。特に9・11では、父の会社の同僚をはじめ身近な人々を失った。「当時はテロリストに憎しみや怒りを感じたけど、今はクールに考えられる。笹森さんのいう和解はできるはずだ」と言う。

 しかし、授業を聞き終えても悩みは残った。「じゃあ、平和や和解のために、どう行動したらいいのかなあ。まず『何もできない』と思い込んだらダメだね。もっと考えます」と自身に言い聞かせた。

行動を開始■

 ケビン・ヘンドリックスさん(16)はテロ当時、世界貿易センター近くに住んでいた。事件の様子を尋ねても、語ろうとしない。代わりに後日に起きた自身の体験を話してくれた。

 家族で公園近くを散歩していた時のこと。飛行機のエンジン音を聞いた彼は、とっさに幼い弟の手を取り、両親を残したまま、ひたすら走って逃げた。それほどまでに恐怖心は、心深くに残った。今も飛行機のエンジン音には敏感だ。

 「なぜ自分たちが傷つけられたのか?」。その理由を探すため、校内では疑似国連で平和や軍縮を語り合う委員会活動に参加。「テロの脅威に核兵器で応える米国の態度が、さらなるテロを生むのでは…」。そんな思いを抱き始めたという。スーダンの大虐殺が繰り返されないよう、手紙で現地政府に申し入れる活動にも加わる。

 「今日の被爆者の話は、暴力が人類にもたらす結末を考える参考になる」。スーダン政府あての手紙に被爆者二人の話を盛り込んでいいか、本人から許可を得ていた。

 授業から二日後の五月一日。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせてニューヨーク市内であった平和行進。そこに姿を見せたヘンドリックスさんは、メンバーとともに市内を歩いた。

(2005年6月3日朝刊掲載)

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