×

ニュース

永井博士のバラが衰弱 当時の責任者他界 広島市、関係者捜す

 広島市中区大手町3丁目の平和大通りの緑地帯にある、長崎の被爆医師、永井隆博士(1908~51年)ゆかりのバラの木が、日照不足などで弱っている。「平和を願って植えられたバラを枯らさないで」との声が市民から出ており、平和大通りを管理する市は、バラを植えた市民団体の関係者を捜している。(増田咲子)

 バラは高さ2メートルを超すが、通常、株元から2、3本生える茎が1本しか生えていない。市植物公園(佐伯区)によると、米国の品種で赤い花を付けるレッド・ラジアンス(赤い輝き)とみられる。柵がないため、周りの土が踏み固められて根が弱り、近くの樹木の陰になり日照不足になっている。株元から新たに出た茎を誰かが知らずに踏んだ可能性もあるという。同公園は「1本しかない茎が何らかの影響で折れると、枯れてしまう」と指摘する。

 9月には、心配した市民が、「見守って下さい」との張り紙を木のそばに掲げた。元高校生物教諭で、平和大通りなどの樹木に詳しいピースボランティアの恵美勇作さん(70)=広島県熊野町=は「核廃絶の思いが託されたバラ。大切に管理してほしい」と願う。

 木の近くには記念碑がある。49年、広島と長崎の青年が広島市で平和交歓会を開いた時、病床の永井博士が世界の恒久平和を願って庭に咲いていたバラを贈った―と記されている。ただ、そのバラは市役所近くに植えられたが、88年、記念碑だけが平和大通りへ移された。民間団体のモニュメントは、市役所の敷地内に置いてはいけないとの市の方針があったためだ。

 市などによると、緑地帯のバラはその時、永井博士宅の庭にあったバラを新たに送ってもらい、植えたとみられる。

 しかし市が今年8月、市民から「枯れそうだ」との連絡を受け、バラや記念碑などの設置を当時申請した「広島・長崎青年交歓会記念碑(由来記)建立委員会」の責任者に連絡を取ろうとしたが、既に亡くなっていた。「関係者を捜し、移設場所などの相談に応じたい」(中区維持管理課)としている。

 一方、市役所近くに植えられたバラは、市が管理し、接ぎ木で増えた。市役所西側の広場で育っている。

永井隆博士
 1908年、松江市生まれ。松江高を経て、長崎医科大(現長崎大医学部)へ。卒業後、放射線物理療法の研究に取り組む。45年6月、白血病と診断される。同年8月9日、長崎市で被爆。負傷しながら救護活動に当たる。熱心なキリスト教徒で、病床で執筆を続け、「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子を残して」などを残した。51年、43歳で死去。

(2013年10月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ