広島世界平和ミッション 米国編 第2部 反核の輪 <3> 原爆生んだ地 研究拡充に無念と怒り
05年6月10日
サンタフェ市から最初の原爆製造の地、ロスアラモス国立研究所まで車で約四十分。車中、同研究所の活動を長年監視し続ける反核市民団体「ロスアラモス・スタディー・グループ」代表のグレッグ・メローさん(55)が、研究所の歴史や役割についてミッション第六陣メンバーに説明を始めた。
「研究所の敷地は、先住民らが受け継いできた地を半ば強制的に買い取ったものだ。その後、研究所が核廃棄物をわざと一帯に捨てて、先住民が帰って来て再び住めないようにした」
放射能汚染の事実は同研究所の元従業員が内部告発して広く知られるようになった。今では近くを流れる大河リオグランデ川まで汚染が広がり、少量のプルトニウムが検出されている。
1000棟が汚染■
研究所の広さは約百十平方キロ。広島市中区の面積の約七倍に匹敵する。敷地内に研究棟が点在し、公道で結ばれている。メローさんによると約二千棟の建物のうち、約千棟は放射能に汚染されているという。
「そんなに多くの施設が汚染されているなんて…」。津田塾大三年の前岡愛さん(20)は、驚きの声を発した。
研究棟の一つ「テクニカルエリア16」は、南東部の松林の中にあった。第二次世界大戦中は「Uサイト」と呼ばれ、広島・長崎に投下された原爆を組み立てた場所である。その後も巡航ミサイルや地中貫通型核兵器の設計などを続けている。
金網の向こうに町工場風の建物が並ぶ。「警備員が飛んで来るから急いで」。メローさんの掛け声で、メンバーは車を降りた。
被爆者の松島圭次郎さん(76)は、霧雨に濡れながらエリア16に向かって手を合わせた。原爆犠牲者にささげる経が涙で詰まる。その場に崩れ落ちそうになる体を、米ダートマス大経営大学院に留学中の会社員木村峰志さん(34)が抱きとめた。
松島さんは車に戻りながら「連れて来てくれてありがとう」とメローさんに頭を下げると、彼は「私たちの国が申し訳ないことをしました」と応えた。
ウラン濃縮施設やプルトニウムの保管施設も見学。メローさんは研究所の今後の役割について「新型核の研究と同時に、水爆の起爆装置であるプルトニウム・ピットの製造などが中心になっていくだろう」と憂慮する。
資材置き場の裏の駐車場には、直径が二メートル余もある金属製の鉄球などが雨ざらしで置かれていた。「臨界前核実験に使う道具だ」とメローさん。敷地内ではあちこちで建物の改装工事や道路の建設工事が目立った。
研究所近くのブラッドベリー科学博物館に立ち寄った。研究所の広報官ジェームズ・リックマンさん(42)に会うためだ。
厳重な警備■
博物館は研究所の付属機関で、核兵器開発の歴史などを展示。年間九万人が訪れる。米中枢同時テロ後、研究所内へは職員の家族も認められないほど警備が厳しくなった。このため「より会いやすい会合場所」にと、博物館を指定してきた。
リックマンさんは「テロ後、ホームランド・セキュリティー(本土防衛)のために、研究所の役割が増している」と説明。具体的な課題として①核兵器の信頼性と安全性の維持②備蓄した核兵器の改善③核兵器を使ったテロ行為への防止対策―の三点を挙げた。
松島さんは「核兵器は二度と使われるべきではない。それが被爆者の願いです」と話すと、リックマンさんは「今後は核兵器廃絶のための仕事も大切になると思います」と答えた。
会見後、米国人で広島YMCA職員のスティーブ・コラックさん(50)は「核兵器開発をやめるどころか、研究所を一層拡充しようとしている。信じられない」と、母国の核開発姿勢に無念と怒りを募らせた。
(2005年6月10日朝刊掲載)
「研究所の敷地は、先住民らが受け継いできた地を半ば強制的に買い取ったものだ。その後、研究所が核廃棄物をわざと一帯に捨てて、先住民が帰って来て再び住めないようにした」
放射能汚染の事実は同研究所の元従業員が内部告発して広く知られるようになった。今では近くを流れる大河リオグランデ川まで汚染が広がり、少量のプルトニウムが検出されている。
1000棟が汚染■
研究所の広さは約百十平方キロ。広島市中区の面積の約七倍に匹敵する。敷地内に研究棟が点在し、公道で結ばれている。メローさんによると約二千棟の建物のうち、約千棟は放射能に汚染されているという。
「そんなに多くの施設が汚染されているなんて…」。津田塾大三年の前岡愛さん(20)は、驚きの声を発した。
研究棟の一つ「テクニカルエリア16」は、南東部の松林の中にあった。第二次世界大戦中は「Uサイト」と呼ばれ、広島・長崎に投下された原爆を組み立てた場所である。その後も巡航ミサイルや地中貫通型核兵器の設計などを続けている。
金網の向こうに町工場風の建物が並ぶ。「警備員が飛んで来るから急いで」。メローさんの掛け声で、メンバーは車を降りた。
被爆者の松島圭次郎さん(76)は、霧雨に濡れながらエリア16に向かって手を合わせた。原爆犠牲者にささげる経が涙で詰まる。その場に崩れ落ちそうになる体を、米ダートマス大経営大学院に留学中の会社員木村峰志さん(34)が抱きとめた。
松島さんは車に戻りながら「連れて来てくれてありがとう」とメローさんに頭を下げると、彼は「私たちの国が申し訳ないことをしました」と応えた。
ウラン濃縮施設やプルトニウムの保管施設も見学。メローさんは研究所の今後の役割について「新型核の研究と同時に、水爆の起爆装置であるプルトニウム・ピットの製造などが中心になっていくだろう」と憂慮する。
資材置き場の裏の駐車場には、直径が二メートル余もある金属製の鉄球などが雨ざらしで置かれていた。「臨界前核実験に使う道具だ」とメローさん。敷地内ではあちこちで建物の改装工事や道路の建設工事が目立った。
研究所近くのブラッドベリー科学博物館に立ち寄った。研究所の広報官ジェームズ・リックマンさん(42)に会うためだ。
厳重な警備■
博物館は研究所の付属機関で、核兵器開発の歴史などを展示。年間九万人が訪れる。米中枢同時テロ後、研究所内へは職員の家族も認められないほど警備が厳しくなった。このため「より会いやすい会合場所」にと、博物館を指定してきた。
リックマンさんは「テロ後、ホームランド・セキュリティー(本土防衛)のために、研究所の役割が増している」と説明。具体的な課題として①核兵器の信頼性と安全性の維持②備蓄した核兵器の改善③核兵器を使ったテロ行為への防止対策―の三点を挙げた。
松島さんは「核兵器は二度と使われるべきではない。それが被爆者の願いです」と話すと、リックマンさんは「今後は核兵器廃絶のための仕事も大切になると思います」と答えた。
会見後、米国人で広島YMCA職員のスティーブ・コラックさん(50)は「核兵器開発をやめるどころか、研究所を一層拡充しようとしている。信じられない」と、母国の核開発姿勢に無念と怒りを募らせた。
(2005年6月10日朝刊掲載)