×

連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第1部 焦土からの出発 <1> 手弁当楽団 学生や僧侶 85人寄り合う

 広島交響楽団は今年、プロ化して50年の節目を迎える。「カサカサに乾いた原子砂漠に咲いた奇跡の花一輪」。プロ化当時の2代目理事長で医師・平和活動家の原田東岷さん(1912~99年)は広響をそう表現した。中四国初のプロ楽団はどのように誕生し、全国的なオーケストラへと成長を遂げたのか―。コロナ禍で文化芸術が危機に直面する今、かつて「奇跡」と称された広響の歴史をあらためてたどりたい。(西村文)

「文化的シンボル」目指す

 64年4月6日、ようやく開催にこぎ着けた第1回定期演奏会。広島市公会堂のステージに並ぶ楽団員は緊張した面持ちながら、誇らしげだった。詰め襟の学生服姿も見える。鋭い表情の井上一清・エリザベト音楽大助教授(1933~2019年)が指揮台に立つ。自由を愛し、民衆のために戦った英雄エグモント―。広島市民交響楽団(市響)が船出に奏でたのは、ベートーベン「エグモント序曲」だった。

 市響は「市民による、市民のためのオーケストラ」を掲げ、地元音楽家たちがアマチュアにも参加を呼び掛けて結成した。半年間に及ぶ練習を経た第1回定演には、市民1500人が詰めかけた。入場料は200円。翌日の中国新聞夕刊は「大成功の初演奏会」と大々的に報じた。

 奏者はどういった顔ぶれだったのか。同年11月にあった第2回定演の出演者名簿が残っていた。

 主要なメンバーはNHK広島放送管弦楽団(広管)9人をはじめ、エリザベト音楽大の教員・学生13人、中・高校の教諭11人。アマチュアの勤務先は幅広く、三菱重工、東洋工業(現マツダ)、中国電力、国鉄、広島テレビ、ラジオ中国など。さらに、警察官、自衛隊員、医師、僧侶、大学生、高校生…。総勢85人を誇る楽団の内情は、寄り合い所帯であった。

 「ビオラを習い始めてまだ1年。弾けないところを何とかごまかしてね。全体の足を引っ張らないように必死だった」。広島大工学部2年だった入江乙彦さん(77)=広島市安佐北区=は、師事する広管メンバーの田中敬さん(後に広響ビオラ首席奏者、2007年に76歳で死去)に誘われ、第2回定演から参加した。

 練習場所はNHK広島放送局のスタジオを間借り。仕事や学校が終わってから集まり、夜遅くまで練習した。「大変だったけれど、大勢で演奏できる喜びが勝った」と入江さん。

 楽団員たちの奮闘ぶりを当時の中国新聞は伝える。「原爆だけをヒロシマの看板にせず、文化的なシンボルとして交響楽団をつくり広島市民の心のかてになろうと結成された。しかし、出演ギャラもなく、練習に通う足代も自前という全くの手弁当楽団」と。

 それから半世紀―。今月6日、広島市公会堂の跡地に建つ広島国際会議場のホールで、広響の「音楽の花束」コンサートが開かれ、華麗にシベリウスの名曲を奏でた。

 現在、広響に在籍する楽団員は61人。ここ10年、広島出身のベテラン奏者の定年退職が相次ぎ、平均年齢は一気に若返った。100倍近いオーディションを突破して入団した若手はトップクラスの芸術大・音楽大出身者が大半で、東京や大阪の楽団からの転職組も。出身地は全国各地に広がる。

 今はいち音楽ファンとして広響を応援する入江さん。「市響の時代がなければ、広響は存在しなかっただろう」。ヒロシマの地で生まれた楽団の歴史を誇りに思う。

 広響にまつわる思い出をお寄せください。感動した演奏会、楽団員とのエピソードなど。採用分は連載の第2部以降で紹介します。住所、名前、年齢、電話番号を記入の上、〒730―8677広島市中区土橋町7の1、中国新聞社文化担当「広響プロ化50年」係。メールはbunka@chugoku-np.co.jp 問い合わせは☎082(236)2332。

(2022年2月15日朝刊掲載)

年別アーカイブ