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連載・特集

知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態 第2部 裏庭の脅威 米国 <6> 無期限スト 劣悪な作業環境に憤り バイト・転職で生計

面接で「危険なし」

 東西に長いテネシー州のほぼ東北端。アパラチア山脈のふもとにあるジョーズボローは、人口四千人足らずの州内最古の町である。その中心部から南西へ約五キロ。町はずれに、エアロジェット軍需テネシー(AOT)社の工場が広がっていた。

 「劣化ウラン弾の貫通体を造っているのは、全米でマサチューセッツ州コンコードのスターメッツ社とここだけだ」。かつてテネシー核スペシャリティーズ社と呼ばれた工場近くに住む元従業員のマイケル・エラムさん(45)は、仕事の手を休めて言った。

 自宅地下の作業場。彼は長く伸ばした口ひげをさすりながら話を続けた。「AOTは戦車用の一二〇ミリ砲なども造るけど、主流は空軍に納める三〇ミリ砲だ。湾岸戦争時にA―10飛行機から盛んに使われたやつさ。中には自分たちが造ったのも入っていたかもね…。とにかく、ひどい作業環境だった」

 高校卒業後、繊維会社に勤めていたエラムさんは、結婚を機に「少しでも給料のいい所を」と一九七九年に転職。応募の面接の際に初めて造っている商品を知った。原料の劣化ウラン(U238)については「電子レンジを使っている時に、近くにいる程度のことだ。何の危険もない」と教えられた。

床に飛び散る溶液

 U238の金属物質が貫通体として完成するまでには、約一六〇〇度の高熱で焼いたり、酸化溶液に浸したり、シリンダー状に延ばしたりなど、いくつもの工程を経なければならない。その過程で小さな爆発が起きたり、ウラン溶液が床に飛び散ったりする。ほこりが充満していても、集じん機さえ働いていなかった。

 「身に着けているのは、つなぎの綿の作業服に手袋、安全靴だけ。放射線防護なんてあったものじゃない」。エラムさんは苦々しそうに言った。

 ひどい環境は建物内だけでなかった。酸化ウランのスラッジ(汚泥状の廃物)や汚染水は、敷地内に掘ったため池に捨てられた。

 池にたまった汚染水がいっぱいになると、工場のそばを流れる小川に流した。野鳥やフェンスを越えて入ってきたネコなどの死がいが、よく池の縁に転がっていたという。

 当時、工場の生産現場で働いていた労働者は約百人。作業環境の改善申し入れに応じない会社に対して、労働組合は八一年五月、「健康と安全」のために職場離脱の権利を認めた労働法を盾に、無期限ストライキで立ち上がった。

 会社は譲らず、その年の八月には他の労働者を雇い入れ、窓を遮へいして生産を再開した。「この地域はめぼしい産業もないから、職探しが大変なんだ。だから少々劣悪な環境でも仕事を求めて人が集まるんだよ」

闘争なお妥結せず

 副委員長だったエラムさんら組合員は、上部団体から一人週二十五ドルの支援を得ながら闘いを続けた。が、それだけでは暮らしていけず、家や車を手放したり、さまざまなアルバイトをしたりして食いつないだ。

 組合は連邦政府の労働委員会に調停を申し入れる一方で、翌年二月には組合員の職場復帰を無条件に認めた。

 しかし、その時は既に職場はなく、復帰できた組合員はごく少数にすぎなかった。エラムさんら組合リーダーは「ブラックリスト」にのせられ、地域では職にありつけなかった。彼はやがて、家の修理から工芸品までを手掛ける自営業の道を選んだ。

 「八〇年代は軍からいくらでも仕事があった時代。会社は労働者の健康や福祉、地域の安全より、もうけを優先した。監視する立場の原子力規制委員会も、何の規制もしなかったんだからあきれるよ」

 厳しい口調で当時を振り返るエラムさんらのAOTとの闘いは、いまなお妥結をみていない。

(2000年4月29日朝刊掲載)

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