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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第1部 焦土からの出発 <2> 業(わざ)ある人 多彩な顔ぶれ 音を一つに

楽団員ら協賛金集めも

 「業(わざ)ある人は参加してください」。1964年4月、第1回定期演奏会の開催にこぎ着けた広島市民交響楽団(市響)。冒頭、バイオリン奏者の一団からステージ前方に歩み出た高橋定(さだむ)さん(故人)が、満席の聴衆にこう呼び掛けた。

 高橋さんは外科医師として被爆者の治療に尽力する傍ら、市響の初代理事長に就任。その音楽と平和への思いに賛同し、市響には驚くほど多彩な顔ぶれが集った。

 「ドボルザークの『新世界より』でイングリッシュホルンを吹いとる。懐かしいなあ」。土屋一郎さん(80)=広島市南区=は古い公演プログラムに目を細めた。64年11月の第2回定演から出演。公立高校の音楽教諭との「兼業団員」だった。

 4歳のとき爆心地から約4キロの自宅付近で閃光(せんこう)と爆風を浴びたが、奇跡的に無傷だった。国泰寺中で吹奏楽部に入部。熱心な先生の指導でオーボエを吹く楽しさに目覚め、東京芸術大付属音楽高に進学した。64年に同大を卒業後、郷里に戻って音楽教諭になった。

 「指揮の井上一清先生は寄せ集めの楽団をまとめようと苦心されていた。もっと自分の思うように吹きたいと、若い団員同士で酒を飲んで愚痴を言い合ったなあ」。72年のプロ化前後に広響を離れ、自らも本格的に指揮を始めて気付いた。大勢が一つの音楽をつくり上げることのすごさに。

 土屋さんは今も吹奏楽や合唱の指揮・指導を続け、音楽活動を支援するNPO法人「音楽は平和を運ぶ」の理事を務める。

 「変わった楽器を演奏する警察官」という見出しで、小学生向けの雑誌に掲載された楽団員がいた。第1回定演でオーボエを吹いていた亀井悌二さん(88)=広島県安芸太田町。当時は広島西警察署刑事一課に勤務。まだ国内で珍しかったバグパイプの演奏家としても活動していた。

 筒賀村(現安芸太田町)の農家の次男に生まれ、加計高を卒業後、東京で警視庁に就職。その頃、同庁音楽隊が創設され、亀井さんは音楽経験がないにもかかわらず入隊を志願した。旧陸軍軍楽隊出身の山口常光・初代隊長の前でハーモニカを披露して大笑いされたが、入隊試験に合格した。週1回、音楽隊の同僚とともに東京芸術大に通ってオーボエのレッスンを受けた。バグパイプはその頃に来日した英ロンドン警視庁音楽隊から演奏法を習ったという。

 62年に帰郷し、広島県警に再就職。市響には第1、2回の定演にオーボエ奏者として参加した記録が残っている。「復興した故郷でオーケストラが立ち上がると聞き、喜び勇んだのではないか」。療養中の亀井さんに代わって、長女の越智ようこさん(61)=広島市安佐南区=が若き日の父に思いをはせる。

 「今の広響は本物のプロ。弦楽の澄み切った音色が素晴らしい」と喜ぶのは、呉市出身のバイオリニスト中畝みのりさん(75)=英ケンブリッジ在住。広高3年のとき、第1回定演に出演。武蔵野音楽大で学んだ後、プロ化の途上にあった広響に入団した。

 当時の出演料は1回500円。その後、2万円の月給制になった。演奏のリーダー役であるコンサートマスターの指田守さん(故人)は事務局も担い、中畝さんたち楽団員は手分けをして企業から協賛金を集め、チケットも売った。「演奏方針を巡って楽団員同士の分断もあった。楽団としてのレベルはともかく、みなプロとしての志は高かったですね」

 75年に退団し、チェコに音楽留学。以来、フリーの演奏家として活動し、被爆2世として反戦や国際友好を掲げたコンサートを国内外で開く。「ヒロシマの楽団には世界にアピールする力が備わっている。気負わず、平和への思いを受け継いでほしい」と後輩たちにエールを送る。(西村文)

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(2022年2月16日朝刊掲載)

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