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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <2> 横軸の軍隊 実力本位 自主性と知略備え

 銃を背負った二刀差しの男たちの服装はふぞろいで、太鼓をたたきながら進む隊員もいる。人物にはそれぞれ名前が記され、一糸乱れぬ武者行列とは趣が異なる。

 慶応元(1865)年ごろの巻物「遊撃軍行進の図」を岩国市周東町の正蓮寺の本堂で広げてもらった。遊撃軍は武士に農町民も加わった長州藩の諸隊の一つ。不統一ゆえの野性味が漂い、このまま銃撃戦に臨みそうな迫力がある。

 諸隊が主力の長州軍の戦い方は、騎馬武者が槍(やり)持ちの従者を伴う従来の戦闘とはまるで違った。「物陰から一発撃っては猿のように動いて攻撃してくる」と敗れた福山藩の兵士は驚いた。慶応2(66)年、第2次幕長戦争の石州口でのことだ。

 長州藩は下関で欧米列強に3連敗した。その教訓から弾を回転させて遠くまで正確に飛ばす新式銃を大量に買い付ける。新しい戦法も取り入れた。一斉射撃でなく、兵士が散開して物陰に隠れながら銃撃する散兵戦術である。米国の独立戦争を勝利に導いた後、西洋に広まった。

 奇兵隊の第3代総督赤禰武人(あかねたけと)が全員の士分待遇を求めたように諸隊は横軸的な実力本位の部隊である。兵士の自主性や知略が鍵となる散兵戦術になじみやすい素地があった。

 長州藩は封建の主従関係に縛られた武士団の解体にも乗り出す。木戸孝允(たかよし)の後押しで大村益次郎は騎馬武者の主人から従者を引き離して銃隊に編成した。武士のプライドを踏みにじる軍制改革は、藩境に幕府軍が迫る鉄火場だからできた。

 戦場で個の力を発揮して死線をくぐり抜けた諸隊の隊員は名もなき兵ではない。時勢に対しても個々の考えを持って自由に論じ合うようになる。遊撃軍の図に個人名が付されたゆえんだろう。戊辰戦争から凱旋(がいせん)して御用済みとされた後、不正や差別扱いをした諸隊幹部の更迭や病兵・戦傷者の救済などを藩に強訴したのはこんな兵士たちだった。

 脱退兵の反乱を鎮圧した木戸は、末端の兵が政治的な主張をして為政者を脅かすことを「尾大の弊」と嫌った。この兵たちはしかし、「民主」とも呼べる横軸的な結集によって自らの権利を主張した点で近代を先取りしていた。(山城滋)

大村益次郎
 1825~69年。鋳銭司(山口市)の医者の家に生まれ、蘭学の適塾で塾頭。宇和島藩、幕府蕃書調所を経て長州藩へ。兵部大輔の明治2年、京都で襲われたけががもとで死去。

(2022年2月16日朝刊掲載)

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