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広島世界平和ミッション 米国編 第2部 反核の輪 <4> バトンタッチ 伝える使命 決意の代役

 ロスアラモス市にほど近いサンタフェ市。カフェで開いた平和ミッション第六陣の交流会に、住民らが詰めかけた。

 「私の名は圭次郎。ケイと呼んでくれればOK」。被爆者で元中学の英語教諭だった松島圭次郎さん(76)のしゃれた英語の自己紹介に会場がなごむ。

被爆の証言■

 続く証言は手ぶりを交えて真剣そのもの。緩急自在の話術に聴衆は聞き入った。「過去を責めるつもりはない。過去に学び、核兵器のない未来へ手を結ぼう」と締めくくると、聴衆は立ち上がって拍手を送った。

 亡き祖父がロスアラモス国立研究所で働いていた彫刻家のアンドレア・スニトビッチさん(43)は「広島・長崎への原爆投下後、祖父は悲しみで家に閉じこもりきりになった。ケイは平和的な人柄で、希望をくれたわ」とほほえんだ。

 その夜、松島さんは腹痛で眠れなかった。翌日は活動を休んだが、病状は治まらない。翌々日の午前三時すぎ、メンバーの付き添いで地元の総合病院に駆け込んだ。

 「二日前から水を飲んでも吐く」。青ざめた顔で医師に告白した。他のメンバーには「平和を伝える大切なお役目の足を引っ張ってはいけん」と隠していた。

 結局、手術を受けることになった。松島さんはベッドの上から自宅で待つ妻の幸子さん(72)へ電話した。「旅に出るときは何が起こっても覚悟の上じゃ。心配するな」。ぶっきらぼうに電話を切った目は赤かった。

 松島さんは手術の担当医や看護師に「平和ミッションに復帰しないといけないので、早く治してくれ」と何度も頼んだ。看護師の一人は「ロスアラモスで造られた原爆によって傷ついた人を治療できるのは光栄です」と告げて、松島さんを手術室へ運んだ。

 二時間にわたる腸閉塞(へいそく)の手術は成功した。松島さんの麻酔がさめるのを待合室で待つ間、米東部の大学院へ留学中の会社員木村峰志さん(34)は、神妙に言った。「ヒロシマを伝えなければ、という先生(松島さん)の使命感は執念に近い。ぼくらの世代が受け継がないと…」

 その決意を試すときはすぐに訪れた。松島さんの見舞いに駆け付けた地元の平和団体のメンバーから、平和授業の依頼が舞い込んだからだ。

 授業は松島さんの手術から四日後。被爆二世の木村さんと三世で津田塾大三年の前岡愛さん(20)は、前夜まで発表内容について話し合った。その結果、祖父母や両親から聞いた体験に、木村さんは科学的なデータを、前岡さんは核開発に伴う環境汚染の視点などを加えることにし、連日遅くまで英語の原稿を書いた。

 サンタフェ市から八十キロ北にあるタオス市のチャミサ・メサ高校。教室には生徒六十人が待っていた。

ブドウ栽培■

 木村さんに続いて前岡さんが、カリフォルニア州で訪ねた核施設のローレンス・リバモア国立研究所そばでブドウが栽培されていた様子を話した。地元の人たちによると、そこのブドウには放射性物質であるトリチウムが微量に含まれているといわれる。

 「そのブドウからできたワインをあなたたちの家族も飲んでいるかもしれない。核兵器開発はさまざまな放射能汚染を生み、自国の人々にも被害をもたらします」と熱弁。「核兵器は私たち、そして私たちの次の世代にかかわる問題なの」

 二人の授業は、世代の近い生徒の心をつかみ大きな拍手を浴びた。

 それまでの交流会や平和授業では「あまり知識がないから」と聞き役に回ることが多かった前岡さん。だが、この日から発言の機会がめっきり増えた。途中での帰国を余儀なくされた松島さんの情熱を、心にしっかり受け継いだようだった。

(2005年6月11日朝刊掲載)

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