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広島世界平和ミッション 米国編 第2部 反核の輪 <6> 非核兵器地帯 条約化を国連が後押し

 ウズベキスタンのアリシェル・ボヒドフ国連大使(53)が、ニューヨークの国連本部三十一階の軍縮局会議室に現れた。

 「ウズベキスタン人の半数はアジア系。日本人と顔つきがとても似ています。残念ながら私は違いますが…」と大使は気さくに笑い、長身をかがめてミッションメンバーと握手を交わした。

 ソ連が崩壊した一九九一年、ウズベキスタンは独立した。国連の正式加盟国として初参加した九三年の総会で、カリモフ大統領が中央アジアの非核兵器地帯条約を提案した。「日本が一番に賛成してくれた」とボヒドフさんは感謝する。

 ソ連崩壊後、隣国のカザフスタンは一時的に、世界第四位の核弾頭数を保有する国になった。インド、パキスタンは核開発競争を展開。核大国のロシア、中国も近い。

合意に時間■

 ボヒドフさんはこうした当時の情勢を挙げて「旧ソ連からの独立を機に、中央アジアの国々は核の脅威に直面するようになった」と振り返る。核兵器保有国からの攻撃を避ける「生き残り策」として、非核兵器地帯を打ち出した。

 中央アジア非核兵器地帯条約の加盟国は、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスの五カ国。「当初は簡単に合意できると思ったのだが…」。ボヒドフさんは、七年前から実質的に取り組んだ各国間の交渉を振り返った。

 かつて五カ国はそれぞれ、モスクワと一対一で結ばれていたために横の連携が弱かった。国連決議案や条文の草案を話し合うにも、互いの連絡がおろそかになるなどの問題が浮上。「外交経験に大きな差があるうえ、次第に国益を追求する姿勢も出てきて、足並みがそろわなかった」と言う。

 各国の調整に力を発揮したのが、国連アジア太平洋平和軍縮センターだった。石栗勉所長(57)は「コーヒー・ブレーク・ミーティング」と称して各国の国連大使を集めて、非公式の会合を五十回余り開催。条約起草の技術や専門知識などを提供した。石栗さんは「国連が非核兵器地帯条約の実現へ向け、全面的に支援した初のケースになった」と話した。

 米国人で広島YMCA職員のスティーブ・コラックさん(50)は「核兵器保有国の反応はどうですか」と尋ねた。旅の間、母国の強引な核政策に、最も憤っていたコラックさんらしい問いだった。

 これからも保有国との交渉を控えたボヒドフさんに代わって、石栗さんが答えた。「条約の修正などを求める抗議が米・英・仏の三カ国から寄せられている」と。

 条約が現実に効果を発揮するには、非核兵器地帯を核兵器で攻撃しないと約束する「付属議定書」に、保有国から署名を取り付ける必要がある。ボヒドフさんは「今後も長い時間がかかる。でも、私たちの条約はきっと世界の核兵器廃絶への一歩となるはずだ」と粘り強い交渉への強い決意をみせた。

広がり願う■

 病気で倒れた松島圭次郎さん(76)に代わって、同じ被爆者として新たにメンバーに加わった村上啓子さん(68)は「平和のためには信念と勇気が必要ですね。非核兵器地帯が、さらに世界中に広がってほしい」と大使を激励した。

 カリフォルニア州からミッションの応援に駆けつけた在米被爆者の笹森恵子さん(72)も「中央アジアの人々の努力に感動した。私もベストを尽くして被爆体験を語ります」と誓った。

 二人の被爆者からエールを受けたボヒドフさんは「被爆の惨状を伝える活動は、世界が常に核兵器によって破壊される可能性があることを、人類の一人一人に理解させる」と強調。「核軍縮には広島・長崎の人々の力が必要です」と二人の肩を抱きしめた。

(2005年6月15日朝刊掲載)

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