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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 宮崎智三 元首相による書簡の余波 福島の事故 忘れないために

 小泉純一郎氏や村山富市氏ら元首相5人による連名の書簡が波紋を広げている。原発回帰に動く欧州連合(EU)に対し、東京電力福島第1原発事故を引き合いにして、方針撤回を求めたものだ。

 書簡は、福島の事故について説明した上で「多くの子供たちが甲状腺がんに苦しみ…」と続く。この部分が抗議や批判を招いた。

 事故から間もなく11年。なぜ、ものの見方がこれほど分かれるのか。書簡が引き起こした波紋を契機に、放射線の影響を改めて考えたい。

 子どもの甲状腺がんについては、福島県が県民健康調査の一環で5巡目まで検査を続けている。約38万人のうち、甲状腺がんと診断されたのは250人を超す。うち摘出などの手術を受けた人も多く、再発による再手術や転移もあったという。

 発生確率が低く、検査を始める前は100万人に1~2人見つかる程度といわれていた。それに比べて、多いのは確かだろう。

 山口壮環境相は、5人に送った抗議文で「放射線の影響とは考えにくい」と国内外の専門家会議が評価していると指摘。その上で書簡の文面だと「差別や偏見につながるおそれがある」と切り捨てる。広島、長崎の被爆者も差別に苦しめられてきたから、人ごとではない。

 しかし、疑問も浮かぶ。放射線の影響でないのなら、なぜ250人を超す子どもが、がんになったのか。原因が明らかにならない限り、本人はもちろん、周囲も安心できまい。

 環境省がウェブサイトで紹介している県民健康調査に関するサイトを読んでみた。放射線の影響をどう評価するか、専門家でも意見が分かれている。生半可な知識で黒白つけられるような状況ではなさそうだ。

 県民健康調査の検討委員会は2019年、「甲状腺がんと放射線被曝(ひばく)との関連は認められない」との見解を明らかにした。しかし「現時点において」「2巡目の結果に限定」との注釈付きだ。さらに「将来的な見通しに言及したものではない点に留意する必要がある」とまで記している。先のことは分からないと明らかにする態度は、科学者として誠実だと言えよう。どう受け止めるかが問われているのかもしれない。

 思い出すのは牛海綿状脳症(BSE)を巡る英国政府の失敗だ。人体への影響を検討するため、オックスフォード大教授をはじめ、動物学やウイルス学、獣医学の第一人者らでつくる委員会を設けた。

 結論は、BSEが人間に感染することは起こりそうにない、だった。それを受け、英国政府は牛の安全性を強調した。ところが7年後、BSEに感染した人間が確認されて、社会はパニックに陥った。

 実は、委員会の報告書には警告とも取れる「留保」が付いていた。非常に限られたデータに基づいて判断したため、可能性に関する自分たちの評価が間違っていたら、影響は非常に深刻なものになるだろう、と。

 データがそろわないのに結論を急ぐと、しっぺ返しを食う恐れもあり得る。英国の事例から、そんな教訓を私たちも学ぶべきである。長期にわたって人体に影響をもたらしかねない放射線には特に注意したい。

 最初の疑問に戻ろう。放射線の影響でないなら、がん多発の原因は何なのか。検討委員会は、高感度の検査を採用したことによる「スクリーニング効果」などを理由に挙げている。検査対象を広げたことで手術が不要ながんまで見つけてしまう「過剰診断」との指摘もある。

 ただ、2巡目以降でも、がんが一定数見つかっていることへの説明がつかない、などの批判がある。過剰診断という意見が十分な説得力を持っているのではなさそうだ。

 手術を担当した福島県立医科大の教授たちも個々の症例を基にして、過剰診断との意見には否定的だ。一方で、放射線の影響については、チェルノブイリ原発事故との比較から「考えにくい」と判断している。

 今後も、冷静に検査や分析を進めるしかない。その結果、例えば過剰診断の可能性が色濃くなったとしても、事故を起こした東電や政府の責任を問い続ける必要がある。事故は終わっていないのだから。

(2022年2月17日朝刊掲載)

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