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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第1部 焦土からの出発 <3> 2人の医師 理事長就任 無償で献身 被爆者渡米治療にも尽力

 現在、広島交響楽団は地元を代表する財界人や文化人が役員に名を連ね、地域ぐるみで楽団運営を支えている。しかし、1972年以前のアマチュア時代は楽団員の情熱が頼みの綱だった。存続の危機を乗り越えプロ化に至った道のりには、2人の医師の存在があった。

 前年にキューバ危機が勃発し、東西冷戦のまっただ中にあった63年。広島市下中町(現中区)の高橋病院で7人が膝を突き合わせていた。「やはり、広島にオーケストラが一つぐらいあってもいいはずだ」「楽団員はどのくらい集まるだろうか」

 エリザベト音楽大助教授の井上一清さんや、NHK広島放送管弦楽団(広管)のコントラバス奏者田頭徳治さんたち地元音楽家の熱い議論に、院長の高橋定さんはじっと耳を傾けていた。同年10月12日、7人が発起人となり広島市民交響楽団(市響)が発足。初代理事長には高橋さんが就いた。

 外科医師でアマチュアのバイオリン奏者だった高橋さんは呉市に生まれた。14歳のとき、呉海兵団軍楽隊に河合太郎・軍楽長(1884~1976年)が就任し、管楽器中心だった同隊にバイオリンなどの弦楽器が加わる。高橋少年は初めて聞く管弦楽のハーモニーに心を奪われ、音楽家を夢見るようになった。しかし、父親の反対で医学の道に進んだ。

 戦争中は陸軍軍医として中国大陸や南洋諸島を転戦。復員後の48年、まだ建設途上だった百メートル道路(平和大通り)沿いに外科病院を開業した。

 その頃、原田東岷さんたち広島の開業医が中心となり、被爆者の救済活動が始まった。高橋さんも加わり、55~56年には原田さんとともに被爆女性25人の渡米治療に尽力。当時の中国新聞に掲載された写真には、外国人医師の診察を見守る高橋さんとカメラを構えた原田さんが一緒に写っている。

 高橋さんは多忙な医師業の傍ら、臨時のバイオリン奏者として広管などの演奏に時々出演し、地元の音楽家と親交を深めた。市響の理事長に就いたのは57歳のとき。少年時代の夢を取り戻すかのように、音楽活動に熱中していった。

 「市響の前途は洋々というべきで、私は胸の高鳴るのを覚えます」「我々団員各位は、貴重な平和文化都市への支柱であるのです」。寡黙で口下手だったと伝わる高橋さんだが、楽団員向けの会報に寄せた文章からは思いがあふれ出る。高橋病院の院長室は市響の事務局となり、自ら協賛金集めやチケット販売に奔走。楽団ではバイオリンの前から5番目に座って、名匠・菅沼源太郎作の愛器を奏でた。

 68年12月の第10回定期演奏会。高橋さんの念願だった「広島人によるベートーベン第九の演奏」が実現した。翌年夏、高橋さんは診察中に心臓発作で急逝する。

 「友人の高橋君は広島にオーケストラを作るのが念願だった。四年後、天は彼の夢を打ち砕いた」(原田東岷著「命見つめて六十年」から)。市響から懇願され2代目理事長を引き受けた原田さんは、無償の献身で成り立ってきた楽団の内情を知り、驚いた。

 友人の遺志を継ぎ、平和文化都市にふさわしいオーケストラに育てるにはどうすれば―。70年、市響は市内から県内外に活動を広げるため「広島交響楽団」と改名し、後援組織「広島交響楽団協会」(現広島交響楽協会)を設立。プロ化へ向かってかじを切った。(西村文)

高橋定(たかはし・さだむ)
 1906年呉市生まれ。日本医科大卒。39年旧陸軍軍医として中国、南方戦線へ。旧大刀洗陸軍病院(福岡県)で終戦を迎え、福岡県の病院院長を務めた後に帰郷。広島原爆障害対策協議会委員などを歴任。69年8月死去。

原田東岷(はらだ・とうみん)
 1912年広島市生まれ。東京慈恵会医科大卒。38年旧陸軍軍医として中国戦線へ。46年3月帰郷し、11月広島の焼け跡に外科病院を開業。被爆者医療と国際平和交流に尽力した。69~84年、広響理事長。広島市名誉市民。99年6月死去。

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(2022年2月17日朝刊掲載)

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