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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <3> 徴兵制 取られた働き手 各地で一揆

 政府は明治4(1871)年までに士農工商の身分制度を撤廃した。民主的な改革にみえる四民平等は、武士階級をなくして皆が武士にならされる時代への地ならしだった。

 幕末の長州藩はそれを先取りしていた。欧米流の銃戦に対応して武士団を解体し、農町民が加わる諸隊を主力とした。その国家版ともいえる国民徴兵制の導入をもくろむ兵部大輔の大村益次郎は明治2(69)年、不平士族の襲撃にたおれた。

 欧州で徴兵制を調べて帰った同じ長州閥の山県有朋が引き継ぐ。武士階級を「世襲坐食(ざしょく)」と痛烈に批判した徴兵告諭に続き、明治6(73)年1月に徴兵令が発せられた。

 男子は20歳で徴兵検査を受け、合格者からの抽選により兵役3年に服す。一家の主人と後継者や代人料270円の納入者など幅広い免除条項があった。実態として豊かでない農家の次、三男中心の軍隊となる。

 働き手を取られる農民はたまったものではない。反対の火の手が各地で上がった。全国でも最大規模の騒動が美作(岡山県北部)の北条県で起き、血税一揆と呼ばれた。

 西洋人は徴兵を「血税と言う」と徴兵告諭にあり、白衣を着た者に血を採られるとの流言が飛び交う。一揆は同年5月末、実際に白衣を着た者を村に出没させて群衆を蜂起させ、県庁(津山市)を目指した。

 西方の一揆勢は愛染寺(同市西寺町)に殺到。僧徒研修場を小学校と間違えて破壊した。学制や地租改正など農民に負担を強いる新政全般への抗議の様相を帯びていた。

 同寺鐘楼門の内外を埋めた群衆は県が集めた士族や官員に鎮圧される。県側の最初の犠牲者は幕長戦争に敗れて美作の飛び地に移住した旧浜田藩士の警官だった。一揆の処罰者は2万7千人に上る。農民男子の4人に1人が加わっていた。

 徴兵は東京鎮台から始まり、広島鎮台は明治8(75)年からだった。兵役逃れの駆け込み的な養子、分家が続出する。管内で明治9(76)年に成年に達した男子5万2千人のうち8割が免役となった。

 封建の世は年貢を払えば済んだ。地租に加え、何ら権利のないまま義務だけ押しつける徴兵制は民衆にそっぽを向かれた。(山城滋)

 明治6年の陸軍編成 東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の6鎮台と宮城を守る近衛兵からなる。広島鎮台の管内は鳥取県、岡山県東・北部を除く中国地方と四国地方で広島と丸亀に営所を設けた。

(2022年2月17日朝刊掲載)

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