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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第1部 焦土からの出発 <4> 第九伝説 ベートーベンに希望寄せ 喫茶ムシカ 「歓喜」紡ぐ

 1964年、広島市民交響楽団(市響)は第1回定期演奏会で、渾身(こんしん)の力を込めてベートーベンの3曲を披露し、詰め掛けた1500人の市民から熱狂的な拍手を浴びた。舞台上と客席は同じ熱気に満ちていた。なぜベートーベンだったのか。ヒロシマの人々の思いを、焼け野原に生まれた音楽喫茶ムシカの「第九伝説」からたどってみたい。

 「純音楽茶房ムシカ」は終戦翌年の夏、広島駅近くの闇市の真ん中に開店した。「音楽で人々の心に潤いを」。店主の梁川義雄さん(95年に79歳で死去)は東京や大阪にまで出かけ、ベートーベンの交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、そして第9番の古レコードを手に入れた。自身も原爆で父と妹を失っていた。

 その年の大みそか、梁川さんは蓄音機で「第九」をかけた。雪降る夜、店内に入りきれない人々が窓に耳を押し当て「歓喜の歌」に涙した―。今に伝わる伝説だ。店の評判は広がり、詩人の峠三吉たち文化人のたまり場となった。55年、胡町(中区)に移転後は、まだ珍しかった3階建ての立派な店構えとなった。

 「ベートーベンが好きだった父に連れられ、階段を上った記憶がある」。市響をバイオリン奏者として支えた今井和子さん(81)=安佐南区=は少女時代、ムシカを訪れていた。

 今井さんは5歳のとき、爆心地から10キロの自宅で閃光(せんこう)を目にした。近所で病院を営む祖父が、列をなす被爆者の手当てをする姿を覚えている。復員して郵便局長を務めていた父は、市内に復旧活動に通った。

 やがて復興とともに音楽のある日常が戻った。小学5年でバイオリンを習い始め、60年、開学9年目のエリザベト短期大(現エリザベト音楽大)に入学。卒業後は子ども向けの音楽教室に務める傍ら、「バイオリン奏者が足りない」と請われてNHK広島放送管弦楽団で弾くこともあった。

 64年4月に広島市公会堂であった市響の第1回定演は、第2バイオリンの最前列に座った。「父が大好きなベートーベンのプログラム。喜んでいましたね」。幕開けはエグモント序曲。そして山上雅庸・広島大助教授がソリストとして登壇し、ピアノ協奏曲第1番。最後は「運命」だった。

 同公演のパンフレットには、「純音楽茶房ムシカ」の広告と、「多年望んで居りました地域社会の情操高揚に大いに役立つことで双手を挙げて賛同致します」という、船出に寄せた梁川さんのメッセージが掲載されている。

 戦後間もなく、広島の人々がベートーベンの音楽に勇気づけられていた様子は、雑誌「映画手帖(てちょう)」の56年7月号のコラムからもうかがえる。「焼けくずれて外壁だけを残した教会堂から、ベートーベンの交響曲が聞こえてくる」「全曲目が終わると、よみがえったように輝く顔をした人々は、名残を惜しみながら瓦礫(がれき)の街へ消えて行く」

 筆者は広島の音楽評論家、大橋利雄さん(83年に73歳で死去)。戦後、ムシカを拠点に400回に上るレコードコンサートを開催した。長男の忍さん(86)=廿日市市=によると、市響の初代理事長だった医師の高橋定さん(69年に62歳で死去)とは家族ぐるみの付き合いだったという。

 ベートーベンが生み出した、苦難から希望へと致る調べ―。今井さんは父が手回しの蓄音機でベートーベンを繰り返し聞く姿を覚えている。遺品には「運命」の総譜があったという。「高橋さんは父と同世代。ベートーベンへの深い思いが、第1回定演に込められていたのでは」。市響は船出から4年後、高橋さんが念願としていた「第九」の全曲演奏を成し遂げた。(西村文)

純音楽茶房ムシカ
 1946年8月、猿猴橋町(広島市南区)で開店。55年に胡町(中区)に移転後は「うたごえ喫茶」としても人気を博した。66年から創業者の梁川義雄さんに代わって長男の忠孝さんが店主を務め、一時閉店や移転を経て2000年に南区西蟹屋で再開。毎年続けた大みそかの「第九」のレコードコンサートは広島の風物詩だった。20年3月末に閉店した。

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(2022年2月18日朝刊掲載)

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