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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <4> 近衛砲兵 恩賞なく俸給減 不満が爆発

 千代田区役所と堀を隔てた皇居外苑・北の丸公園の一角。水面に映る緑の裏手にかつて近衛砲兵大隊の兵営があった。通称「竹橋の砲兵営」。西南戦争翌年の明治11(1878)年8月23日深夜、竹橋事件と呼ばれる近衛兵の反乱の発火点となる。

 20代の兵たちは山砲を引き出して天皇へ強訴しようとした。東京で宮城を守るよりすぐりの精兵集団の近衛兵がなぜ反乱を起こしたのか。

 西南戦争の最激戦地の田原坂(現熊本市北区)。薩摩士族の切り込みに軍歴の浅い鎮台兵はひるみがちだった。近衛兵の活躍とりわけ砲兵隊の砲弾が官軍を危機から救う。ところが待望の恩賞は大尉以上の大官どまり。それどころか戦後の財政危機のあおりで俸給はカットされ、食事や備品も切り詰められた。

 鎮台兵は3年満期だが、優秀な者は途中で近衛兵に選ばれて5年間勤務が延びる。俸給が少し上がっても兵役の長期化は迷惑なことだった。特権と引き換えに武士が担った役割を、何の権利もないまま押し付ける徴兵への反発が根っこにある。

 やり場のない不満が兵舎に充満し、兵たちは密談で計画を練る。近衛砲兵大隊は大半の200人余りが反乱に加わった。その夜、制止する大隊長と当番士官ら3人を殺害。給料削減の恨みから大隈重信大蔵卿(きょう)の邸宅(現区役所付近)に発砲した。

 合図の号砲を放つ頃、強訴に加わるはずの近衛歩兵が鎮圧に動く。山砲には釘(くぎ)が打ち込まれて発射できないようになっていた。それでも反乱兵たち90人余りは山砲1門を押し立て、2キロ余り離れた赤坂の仮皇居(現迎賓館)の門前に達した。

 戦場で死線をくぐって凱旋(がいせん)しても報われず、トップへ強訴するしかない。反乱の過程は戊辰(ぼしん)戦争後の長州諸隊に似ていた。近衛兵も農家の次、三男が多く、首謀者が特定できない横軸的な結集である。自由民権運動の影響が垣間見えるところが時代を反映していた。(山城滋)

赤坂仮皇居
 明治6年に皇居が失火で焼失したため、竹橋事件当時は赤坂離宮に仮皇居があった。その表門は現在の迎賓館東門の位置にあった。

(2022年2月18日朝刊掲載)

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