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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第1部 焦土からの出発 <5> 1枚の写真 カラヤンが寄せた激励

音楽愛した兄弟 志一つに

 20世紀で最も有名な指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89年)が、アマチュア時代の広島交響楽団に激励のメッセージを寄せたことがある。70年の第14回定期演奏会のパンフレット。巻頭にサイン、顔写真とともに、日独両語で「広響の発展を祈る」と印刷してある。なぜクラシック界の帝王がプロ化前夜の広響に? 事務局も「経緯は分からない」という。手掛かりを探すうち、1枚の写真と出合った。

 広島市西区商工センターの建材卸業「大橋商会」の一室。元社長の大橋利雄さん(83年に73歳で死去)とカラヤン夫妻が並んだ写真が飾られていた。「父からカメラを持ってすぐに来るように電話があった」と長男の忍さん(86)は思い起こす。66年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の広島公演の際に撮影されたという。

 大橋利雄さんは戦前からクラシック音楽のレコードコレクターとして知られる存在で、戦後はレコードコンサートの解説や音楽評論家として活躍。64年12月の中国新聞には、広島に誕生したオーケストラへの期待をつづっている。「市民の中から芽ばえたこの楽団(中略)、やがて京響や群響のようにすばらしい楽団に成長することを祈ってやまない」

 しかし、無償のアマチュアからプロ楽団への道程は多難だった。65年から広島市の補助金がわずかに出るようになったが、大勢の楽団員に月給を支払い、事務局を維持するには膨大な費用がかかる。原田東岷理事長は何度も上京して国に支援を訴えたが、無名の楽団への助成はなかなか実現しなかった。当時、大橋さんは副理事長を務めていた。

 71年になって、文化庁は支援を打ち出し、国と県からの助成金が出るようになった。これが弾みとなり、翌72年に社団法人「広島交響楽協会」が設立され、広響はプロ化した。

 翻って、カラヤンのメッセージがパンフを飾ったのは70年。このサプライズは広島の人々を喜ばせると同時に、広響のプロ化を後押しする効力もあったのではないか。当時、カラヤンはクラシックになじみのない人にも知られ、ベルリン・フィルの全国ツアーはラジオやテレビでも放送された。カラヤンが広島を初めて訪れた際には原爆ドーム前でじっと目を閉じ、10分余りも立ち尽くしたと伝わる。

 サプライズの発案者とおぼしき人物が見つかった。カラヤンと大橋さんが並ぶ写真に写っているもう一人の男性。大橋さんの弟でNHK音楽部長を務めた福原信夫さんだ。カラヤンの来日ツアーに同行し、長年親交があった。広響のために仲介役を買って出たとしても不思議ではない。

 大橋さんと福原さんは、河原町(中区)で建材卸業を営んでいた大橋家に生まれ、福原さんは幼少時に養子に出た。45年8月6日、爆心地から1・2キロにあった大橋商会は壊滅。家業を継いでいた大橋さんの兄は被爆死した。前日から広島市郊外に出かけていて無事だった大橋さんは戦後、家業の再建を一身に担った。

 戦時中、小学生だった忍さんには忘れられない光景がある。自宅で父利雄さんが音楽仲間とレコードを聴いていると、4、5人の憲兵が「敵国の音楽とはけしからん」と踏み込んできた。「同盟国のドイツの音楽だ」と説明しても許されず、何度も打たれる父の姿が目に焼き付いた。

 「父にとって音楽は平和そのもの。ヒロシマに根付くオーケストラを何としても欲していた」と忍さん。福原さんもまた、戦後の故郷で音楽に希望を見いだしていた。「(闇市の音楽喫茶で)『第九』が演奏されるときは常に大入り満員であった。人々は原爆後の傷跡のいえない暗黒の街に、再建の希望に燃えて真剣に聴き入ったのであった」(82年12月15日付中国新聞「緑地帯」から)

 焦土から出発し、人々の熱意に支えられてきた広響。美しいハーモニーに乗せて、その思いを未来へとつなぐ。(西村文)

=第1部おわり

福原信夫(ふくはら・のぶお)
 1918年広島市生まれ。広島一中(現国泰寺高)を経て、早稲田大、東洋音楽学校(現東京音楽大)卒。41年NHKに入局。74年に定年退職後は音楽評論家として活躍し、東京音楽大教授、同大学長を歴任。88年3月死去。

 広響にまつわる思い出をお寄せください。感動した演奏会、楽団員とのエピソードなど。採用分は連載の第2部以降で紹介します。住所、名前、年齢、電話番号を記入の上、〒730―8677広島市中区土橋町7の1、中国新聞社文化担当「広響プロ化50年」係。メールはbunka@chugoku-np.co.jp 問い合わせは☎082(236)2332。

(2022年2月19日朝刊掲載)

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