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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <5> 天皇と兵士 同世代 絶対的権威を感じず

 ドイツ人医師ベルツは日本観察の日記を残した。明治13(1880)年の天皇誕生日(11月3日)には「警察の力で家々に国旗を立てさせねばならず、自発的にやるものはごく少数だろう」。帝政の自国に比べてか「この国の人民がその君主に寄せる関心の程度が低いありさまをみることは情けない」と記した。

 その2年前に竹橋事件を起こした近衛砲兵大隊の20代の兵士たちも、閲兵の折に見る同世代の天皇に絶対的権威は感じていなかったようだ。多くは農家の次、三男。徴兵や地租改正に対し血税一揆などで不満を爆発させた農村の空気を知っている。

 兵舎の外では士族反乱の余燼(よじん)がくすぶり、藩閥政権に言論で対抗する自由民権運動も盛り上がる。当時の陸軍はフランス式で、兵舎を抜け出して密議ができるほど自由が利いた。世情騒然の風が兵たちの心の内にも吹き込んでくる。

 5年に及ぶ近衛兵の長い兵役に加え、西南戦争で命を張った戦功も報われない。処遇改善の直訴先を天皇にしたのは国の象徴的な代表だったからだろう。北陸東海巡幸の出発が近づいたため明治11(78)年8月23日夜、行動を起こした。

 軍内部で自己の権利を主張する風潮に神経をとがらせていたのが陸軍卿(きょう)の山県有朋である。とりわけ民権運動の影響が及ぶのを恐れ、天皇権威と軍を直結させる方策として「軍人訓誡(くんかい)」の草稿を練っていた。

 近衛兵の不穏な動きを山県は事前につかんでいたようだ。それを利用する魂胆もあったろうが、山砲まで引き出すとは考えていなかった。

 赤坂の仮皇居の門前まで山砲を押して行ったのは九十余人。鎮圧軍に囲まれて反乱兵1人が銃で自決し、他の兵も武器を捨てて縛(ばく)に就いた。

 陸軍裁判所は反乱に関係した263人の判決を10月15日に言い渡し、死刑の53人は即日銃殺された。翌年4月判決でさらに2人死刑となる。

 将来にわたる不安の芽を根絶やしにするという点で、極刑の多さは長州の諸隊反乱のときに似る。  死刑になった55人のうち中国地方出身は岡山県の山本丈作と鳥取県の梁田正直、岩本久造。3人とも23歳の若さだった。(山城滋)

エルヴィン・フォン・ベルツ
 1849~1913年。ドイツ帝国の医師。お雇い外国人として明治9年から38年まで滞日。医学界に大きな影響を与えたほか、「ベルツの日記」を残した。 (2022年2月22日朝刊掲載)

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