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連載・特集

広島世界平和ミッション 米国編 第3部 歴史へのまなざし <1> 投下訓練跡 「原爆被害も伝えたい」

 原爆投下の是非をめぐる議論は、六十年を経た今も続いている。広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)の第六陣メンバーは、投下を正当と見なす米国の歴史家らとの対話を通して、互いの歴史認識の差をあらためて探った。また、戦後間もなく広島に救いの手を差し伸べ、いち早く和解の道を切り開いた米国の恩人たちの足跡もたどり、彼らが残した歴史から教訓を学んだ。(文・岡田浩一 写真・松元潮)

 一時間近く直線の高速道が続く。沿道は白一色。ユタ州ソルトレークの地名通り、干上がった塩の湖が広がっていた。

爆弾の模型■

 四輪駆動車のハンドルを握るのは、ウィスコンシン州在住のトラック運転手で歴史研究家でもあるジョン・コスタームランさん(58)。昨年十月、広島に投下された原爆「リトル・ボーイ」の模型を製作した。呉越同舟。互いに気まずいドライブだった。

 ネバダとの州境にウェンドーバー空港はある。爆撃機「エノラ・ゲイ」の乗組員が一九四四年十月から翌年五月末まで、原爆投下の訓練を積んだ拠点。コスタームランさんの模型は、この古びた空港の管制棟に展示されていた。

 「うーん」。被爆者の松島圭次郎さん(76)は管制棟の一室で小さくうなった。顔をゆがめ、頭をかきむしる。

 目の前に緑の爆弾模型があった。長さ約三メートル。実物の重さは約四千三百七十キロだが、木製の骨組みに鉄板をかぶせた模型は約二百七十キロ。自宅のガレージで造ったコスタームランさんは「電気配線の細部なども再現し、これまでのどの模型より忠実だ」と誇った。

 「空港の歴史を象徴するものがほしかった」。空港のジェームズ・ピーターソン所長(58)は、彼に製作を依頼した動機を説明する。

 空港は爆弾の投下訓練用として四一年に開港した。軍は七七年、主要施設をウェンドーバー市へ移管。五年前からトゥイラ郡が、約五億円を費やして博物館として再整備を始めた。廃虚同然の爆撃機B29用の格納庫も残る。ピーターソンさんは「資料館に再生したい」と計画を明かした。

 見学を終えた米ダートマス大経営大学院へ留学中の木村峰志さん(34)がコスタームランさんに話し掛けた。「あなたがマンハッタン計画の元関係者の集まりで発言した、原爆投下を正当化するスピーチ原稿をインターネットで読んだが、とても残念だった」

埋まらぬ溝■

 コスタームランさんは「戦争の早期終結には、日本の指導者に衝撃を与える必要があった。その史実を述べただけ」と答え、さらに続けた。「原爆投下の是非をめぐる議論はもうたくさん。二度と悲劇を繰り返さないために、将来を見ていこうと訴えたつもりだ」

 「でも、六十年前を正当化してしまうと、いつか当時の日本と同じような国が現れたら、また核兵器を使う恐れがあるのではないか」。メンバーの反論に彼はしばらく黙り込んだ後、小声で答えた。「今はそんな危機は思い当たらないが、その恐れはある」

 双方の溝は埋まらなかった。一方で、コスタームランさんは松島さんの被爆証言に熱心に耳を傾けた。そして「歴史の両面を伝えるべきだ。整備する資料館にも原爆の被害を伝える写真などを展示しよう」と提案。ピーターソンさんも「帰国後に資料を送ってください」と一行に頼んだ。

 コスタームランさんは運転手としての仕事の傍ら、マンハッタン計画の関係者から聞き取り調査を続ける。休日返上でミッションに同行。メンバーの荷物運びなど世話を焼いてくれた。そんな人の主張だけに、米国に浸透する正当論の根深さを一層痛感した。

 帰り道、松島さんの表情から当初の緊張は消えていた。「意見は違うけど、いい人じゃ。時間をかければきっと力を合わせられるだろう」と今後の交流に希望をつないだ。

(2005年6月20日朝刊掲載)

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