×

連載・特集

広島世界平和ミッション 米国編 第3部 歴史へのまなざし <2> エノラ・ゲイ 「歴史的機体」 論争を敬遠

 首都ワシントンの中心部から西へ約四十キロ。ダレス国際空港そばにスミソニアン航空宇宙博物館新館はある。全長約三百メートル、高さ三十一メートルのかまぼこ形の巨大な建物だ。戦闘機からスペース・シャトルまで百五機を展示する。

 「あっ、いたよ」。ミッション第六陣の被爆者村上啓子さん(68)は、遠くにそびえたつ「エノラ・ゲイ」の尾翼をいち早く見つけた。足早に近づき、機首の前でつぶやいた。「母のかたきじゃ」。しばらく無言の後、銀色の機体を見上げて「あの日、これを見た人はキラッと光ったと言うてよねえ。その意味が実感できた」と小声で話した。

 爆心から一・七キロで被爆した。村上さんは爆音を聞きつけた父の掛け声で、家の床下の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。家の下敷きになった母は右目を失い、三十六年間寝たきりの生活を送った末、亡くなった。

英雄のよう■

 「陽気なエノラ」。機首に書き込まれた名は、機長の母の名にちなんでいる。「機長も、母親も、B29の開発者も、あんなひどいことで英雄のようにいつまでも祭り上げられて、あわれよね」。村上さんは静かに言った。

 メンバーは説明板を確認した。機体に装備された先進技術が書き連ねてあり、原爆については「1945年8月6日、戦闘では初の原爆を投下」との記述しかなかった。博物館側は、どの展示も特別扱いはしていないという。が、明らかにエノラ・ゲイは、スペース・シャトルと並ぶ「目玉」で、大勢の見物客を集めていた。

 教諭に引率された中学生のグループも。米国人で広島YMCA職員のスティーブ・コラックさん(50)が生徒にそれとなく尋ねた。「広島で亡くなった人は何人だと思う?」

 生徒は「三万五千人ぐらいかな。放射線の影響で、亡くなる人もいたと思うけど…」と答えた。コラックさんは「正しい知識を得る機会を失っている」と残念がる。

 見学に先立ち、メンバーは博物館の責任者への面会を申し入れた。だが、「市民団体とは個別に会わない」と断られた。一九九五年の原爆展中止では、当時の館長が辞任に追い込まれた。二〇〇三年のエノラ・ゲイの一般公開初日には、平和活動家が赤ペンキを機体に投げつけて逮捕された。博物館として「もう論争に巻き込まれたくない」という姿勢が透けて見える。

 仕方なく同行記者が取材名目で、面会の約束を取り付けた。コラックさんを通訳に起用し、一緒に新館の事務所を訪ねた。

 若々しい笑顔に、がっしりとした体形の学芸員ディック・ダソさん(45)は、エノラ・ゲイの展示理由に数々の先進技術を挙げて「歴史的な機体」と評価。さらに当時の日本と異なり「原爆投下計画は米政府が軍を管理して成し遂げた。機体はシビリアン・コントロールの象徴。日本が侵略した国々の人々にとっても大きな意義がある」と強調した。

抗議「ゼロ」■

 コラックさんが通訳の立場を忘れ、思わず質問した。「原爆被害の展示はできないの?」。ダソさんは「どの機体も同じ説明板を使う。館内には展示スペースの余裕もない」と答えた。

 新館開館以来の入場者は二百二十五万人。大半の反応は「肯定的」で、地元の平和団体からの抗議も今はないという。

 事務所を出たコラックさんは「博物館側は、論争を蒸し返されないように警戒してるね」と驚く。「でも、やっぱり、今のままだと見学者は機体を見て『すごい』としか思わないよ」

 機体を見渡せる渡り廊下に透明の防護壁がある。物を投げつけられないためだ。その防護壁は原爆の肯定派と否定派の間の壁そのもののように見えた。

(2005年6月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ