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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <6> 山本丈作 銃殺刑の23歳 墓石人知れず

 津山市の東郊、水田が一面に広がる田井(たい)地区(岡山県勝央町)。明治11(1878)年の竹橋事件で銃殺刑となった当時23歳の山本丈作はこの村の出である。

 同年4月に近衛砲兵大隊の馭卒(ぎょそつ)となり、8月23日夜の反乱に加わった。農家の次男として徴兵令により20歳で大阪鎮台に入り、前年の西南戦争での働きぶりから近衛兵に抜てきされたと想像できる。

 田井地区を一望できる高台に観音寺がある。丈作の戒名は「東勇自遷信士」と分かったが、墓は境内にない。あるとすれば家の近くという。地区内に山本家は3軒ある。訪れる前に電話で尋ねた。

 丈作の墓も竹橋事件のことも「聞いたことがない」。どの山本さんもけげんそうに答えた。昨年10月中旬の昼下がり、3軒の中で約束ができた山本紋子(あやこ)さん(68)を訪ね、山裾の墓地へ案内してもらった。

 木立の下に山本家3軒の墓所があった。紋子さん方の区画には思ったより多くの墓石が並び、文字が判然としないものも少なくない。山際の一番奥に高さ約90センチの古びた墓がぽつんとあった。しゃがんで確かめると正面に「東勇自遷信士」と刻まれていた。右側面に「明治十一年」、左側面に「山本○○(判読不能)」とある。丈作の墓である。

 「本当ですか」と紋子さんは驚きの声を上げた。ここで育ち墓所の掃除と花入れを欠かさないが、先祖から教わったことはないという。

 田井村を含む旧北条県(美作)では明治6(73)年、徴兵令など新政府の政策に抗議する血税一揆の嵐が吹き荒れた。農家男子の4人に1人が罰せられ、当時18歳の丈作が加わったとしても不思議ではない。

 強訴の先が県庁から天朝様に変わったのが竹橋事件だったのかもしれない。東で勇ましく自ら遷(うつ)るという戒名は、仮皇居前まで仲間と山砲を引いた丈作への共感をほのかに漂わせる。事件後に天皇権威の絶対化が進められた結果、墓の記憶は継承されなくなったのだろうか。

 紋子さんは墓所の墓を近くまとめるつもりである。「この墓は置いといた方がよいでしょうか」。自問しながら143年たった丈作の墓にそっと手を合わせた。(山城滋)

馭卒
 砲車を馬に引かせる兵隊で、竹橋事件で死刑になった55人中38人を占めていた。砲兵隊には他に砲卒、火工卒たちもいた。

(2022年2月23日朝刊掲載)

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